ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

私は必勝祈願など決してしない

プロスポーツのチームが、必勝祈願とかで、監督、コーチ、選手達が揃って神社などに参拝することがよくあり、テレビで見たことがある人も多いと思う。
あれを見て私は、子供の頃から、違和感を通り越した異常さを感じていた。
神様が、一方のチーム、あるいは、選手に味方したりなどするだろうか?
戦国時代には、戦の前に、藩主、家臣がやはり戦勝祈願をしたらしいし、近代でも、戦争の時に、各国のリーダー達が神に勝利を祈ったりするだろうが、もはや愚か以外の何ももでもないだろう。
神様が、我欲で戦争をする国に恵みを与えるとでも思っているのだろうか?
神様が、欲望で争いあう国や軍隊の一方に組するなどと、本気で思っているのだろうか?
神様が、あなたの代わりに、あなたが勝手に、敵、悪者と決め付けた人々を殺してくれるとでも言うのだろうか?
そこまで神様を見くびることが出来ることが、私には信じられない。

これについて、ジョージ・アダムスキーに、宇宙人達がこんな喩えで話している。
もし、あなたに2人の息子がおり、1人の息子があなたに、もう1人の息子を殺したいから味方をしてくれと言ってきたら、あなたはそれに応じるだろうか?
日本では神様を親様と言うこともあり、キリスト教でも、神を父と呼ぶが、神様は人間の親のようなものであろう。
人間の父親ですら、優れた父であれば尚更、そんな願いに応えるはずがないが、まして、神が人間をえこひいきなどするはずがないではないか?

『バガヴァッド・ギーター』では、親しい友や親族、あるいは、尊敬する師を殺すことが出来ないと言って、戦うことを拒否するアルジュナ王子に、神クリシュナは、「彼らはすでに神によって殺されている。自然の天性のままに戦え」と言う。
しかし、それがアルジュナの避けられない運命であるということであり、神がアルジュナに味方するというのではない。

上杉謙信は、戦での勝利を祈念し、生涯、女を抱かないことを誓った。
だが、彼が禁欲をするかどうかは、運命としてあらかじめ神が決めていたことであり、謙信は自分の意志でそうしたと思っていただろうが、単に彼はそうさせられただけだ。
だが、神は、彼に禁欲をする運命と同時に、ある程度の戦勝の運命を与えたのだ。それは、ままあることなのかもしれない。
神は、放埓と敗北、自己誓約と勝利の運命をセットで与えることが多いのかもしれない。しかし、必ずしもそうではない。
いずれにしろ、人間が神に命ずることなど出来ないし、神と商取引をすることも出来ない。
私も、2年以上前から完全な禁欲を行っているが、見返りを求めてのことではないし、求めても仕方がない。単に、神がそう定めていたのである。
禁欲しますから戦に勝たせて下さいだのとは、卑しいにもほどがある。

宮本武蔵は、吉岡道場一門との決闘の前に、神に祈りを捧げようと神社に行くが、自分の誤りに気付き、それを取りやめた。
「神仏は尊し、されど頼まず」
大昔の武蔵でさえ気付いたことを、いまだ分からない者が多いのは残念なことである。
受験の必勝祈願というのも盛んだが、神様が、我欲ですがってくる卑しい者を合格させ、そうでない者を差別して落とすとでも言うのだろうか?

昔であれば、春日局のように、家光が幼い頃、彼の病気の治癒を願って、薬断ちの願掛けをしたことは立派であったのかもしれない。
しかし、人類が進化か滅亡の分岐点に立つ今、無理矢理に神に言うことを聞かせようという態度はもはや落第であり、受容性を得る時であるのだ。
愛する者の健やかなることを願うのは当然のことであるが、それは神の決めることであり、我々は自然の天性のままに努力しつつも、その意志を受け入れるしかない。
ラマナ・マハルシは、母親が重病に陥った時、神に快復を祈ったが、すぐに、「では、葬儀に必要なものは何だろうか?」と思ったのである。









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誤解されること、嫌われること、蔑まれることが何だろう?

ヴィーガンさんからの質問がとても興味深かったのでお答えしたい。
質問をそのまま引用させていただく(行送りを少し変えた)。

◆質問
いつも熟読させていただいてます。
質問ですがKayさんは人生で成り行きで犯した罪についてどう考え、どうやって不安を消しておられますか?
私はまだ学生なのですがネット初心者の頃に成り行きでネットに中傷的なことを書いてしまいました。それが人生で最大の罪です。
あんな過去ログがもし世間に晒されたら生きていけません。
今の時代、ネットでの中傷等は当たり前のようになっていますが私があんなひどいことをふざけてでも書き込みするような人間と思われたら生きていけません。
Kayさんは過去の罪、未来の不安をどうやって和らげていますか?

◆回答
私もまた、数多くの罪を重ねてきたし、その中には、軽くないものもある。
思い出せば、嘆きや悲痛を感じることもあり、やらなければ良かったと強く思う。
だが、私がそれをすることは、決して避けられなかったのだ。
私が何をするかは全て、私が生まれる前から決まっていたことであり、私はただの自動人形である。
人は、自分の思うままに、善いことも悪いことも出来ないのだ。これは、私だけでなく、荘子も親鸞も、イエスも皆、同様にそう言ったのだ。
私は行為者ではないし、行為者はどこにもいない。いわば、神だけが行為者である。
自分の意志で人生を支配できるという傲慢さこそ最大の罪であり、自分が行為者ではないと見なさなければならないのだ。

不安を消したり、和らげたりすることもしない。
不安や恐怖といった苦痛、そして、その裏返しであり、実際は全く同じものである快楽も、全て自我の働きである。
自分の想いや行いも含め、全てを起こるままに任せ、受容するなら、自我が弱まってくる。
そうすれば、不安や恐怖、快楽への欲望もまた小さなものになるのである。
人にどう思われるかも、さしたる関心ではなくなる。
人々から蔑まれ、疎まれるかもしれない。しかし、それが運命であれば、受け入れるしかない。
そんな受容性が高くなれば、揺るぎない勇気と平安を持てるだろう。
こういったことは、あらゆる古代からの賢者の書にも書かれているが、それを理解するためには、いろいろやってみるのが良いのだ。
あなたがやったことも無駄ではない。
それと、あえて言えば、他人はそれほどあなたのことを気にしていない。良い意味でも悪い意味でもね。
ほとんどの人は、本当に、あまりにも自意識過剰なのだ。
まして、ネットに、初心者が何か言った程度のことが、どれほど問題になるだろう。
まあ、なったらなったで仕方がないが、考え難いことであり、気にし過ぎであると思う。
これから、もっとはるかに大きな恥を晒したり、悪名を轟かせるかもしれない。しかし、そんなことは何の影響も受けないような強さも持てるようになるだろうし、持たなければならないのだ。
岡本太郎は、こう言ったのだ。
「嫌われたっていい。いや、嫌われなければならない」
「誤解されたっていいじゃないか?いや、誤解されないといけない」
この強さを倣うべきである。








  
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本当の体力

体力があると何が良いだろう?
仲間達の荷物を運んであげられるし、災害が起こったり、無人島にでも漂流した時に人々のために大活躍できるだろう。
だが、今は、スポーツで活躍できるとか、勉強や仕事をするのが有利になるといった、自己中心的なことばかり考える人が多いかもしれない。

『灼眼のシャナ』という小説で、体力に関する印象的なお話があった。
主人公の1人である、坂井悠二(高1男子)の高校では、学園祭で、仮装して町を歩いたのだが、相当な距離を歩くので、終る頃には、皆、ヘトヘトになってくる。その中で、悠二は平然としているばかりか、特に重装備の仮装をした、グロッキー状態の親友の池速人に肩まで貸している。それを見て、一緒に歩いている佐藤啓作は、「あいつ、あんなに体力あったか?」と驚く。
また、落ち葉の掃除をしている時も、濡れた落ち葉を詰め込んだ袋を、普通の男子は1つを必死で運ぶ中で、悠二は、特に意識もせず、両手に1つずつ、軽々と運んでいた。
悠二は、シャナと毎朝、鍛錬をしていたのだ。シャナは、一応は悠二と同じ高校1年のクラスに入っているが、みかけはせいぜい11歳か12歳の美少女だ。しかし、実は超人的な戦士で、剣道日本チャンピオンやフェンシングのオリンピック金メダリストも足元にも及ばないような剣術の達人である。
鍛錬を始めた頃の悠二は、あまりのふがいなさや、進歩の遅さに、シャナに愛想を尽かされていたが、毎日欠かさず続けているうちに、知らぬ間に強くなっており、今では、ちゃんとシャナと打ち合えるまでになっていた。
私は、毎日欠かさず鍛えることが力になることを示す印象的なお話と感じた。
(普通は、落ち葉集めの時、シャナが、クラスメイトで、おとなしいがかなり可愛い吉田一美に、「ねえ、一美、赤ちゃんってどうやって作るの?」と聞くところの方が印象的なのだろうが)
本人は気付かないが、何かの機会があれば凄い力を発揮し、人の役に立つのである。

昨日の朝、私がいつも通り、駅に向かって歩いていて、駅まで数十メートルのところで、後ろから、学生風の男子が猛然と走ってきて私を追い抜いた。その時、ホームに入ってきていた電車に乗るつもりなのだろう。ちょっと無茶な感じである。
ところが、彼が私の十数メートル前まで行ったところで、サイフのようなものを落としたが、気付かずに行ってしまった。
普通なら、それを拾って渡そうとは思わないだろう。スリムな、かなり足の速い若者だし、すでにはるか向こうだ。しかも、状況からいって、彼は必死で走っているはずだ。
しかし、私は何も考えず、走り出して、彼が落としたものを拾った。鍵の束を収めたカバーだった。彼を追って駅のエスカレーターを駆け上がり、構内を抜け、追いつくのに改札口の所までかかってしまった。そこで彼に落としたものを渡す。彼はかなりしんどそうだが、私は平然としているので、ついそこらで落としたと思っているだろう。実際、私は、全く息は切れていなかった。
これも3年以上、1日も欠かさず、スクワットや腹筋運動、腕立て伏せ、腕振り運動を行っている成果だろうか。
私も体力とかいったものには無頓着であるが、いざという時に人の役に立てるのは良いことであると思った。

以前、大企業に勤めていた時、社内のある設備にあったバルブを開かないといけなかったが、堅くて誰も動かせなかった。腕力に自信のある男達が次々挑戦し、見ていた総務課の新入社員の美人に良いところを見せようとがんばるが、ぴくりとも動かない。だが、ある細身の男が、恐らく期待もされずに試すと、動いてしまった。しばらく後で偶然に聞いたが、彼は毎日、軟式野球のボールを握って握力を鍛えているらしい。何でも、ある日、百貨店に行った時、スポーツコーナーにあったそのボールを見て、不意に閃いてそれを買い、以降、1年以上も毎日鍛えているのだ。

あなたも、当然の日課になるよう、1日も欠かさずに訓練すれば、知らないうちに、自分でも思いがけないような力を得ているだろう。
そのためには無理をしてはいけない。
気合というほどの意欲は我欲であり、すぐに目に見える成果や見返りがないと続かないのだ。
あまり楽なものでも意味がないが、ちょっと辛い程度のことを淡々と、毎日、なるべく同じ時間に欠かさずやれば、気が付けば、2年、3年、あるいは、それ以上続いていて、すっかり自分の一部になっているだろう。
無論、運動でなくても、聖書やバガヴァッド・ギーターを読むようなことでも良いが、人間というのは、身体を使う訓練の方が、まだうまくやれるのである。
そして、身体を使った訓練をいくらかやると、精神的な訓練もうまくやれるようになっているだろう。









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空を見上げると救われる

現代人は、空を見上げることが少ない。
昔は、空を見ないのは悪人と相場が決まっていたものだが、確かに、青空や星空を見上げる悪者など、あまりピンとこない。
また、人は不幸になると空を見なくなるが、本当は空を見上げないから不幸になるのである。
空に意識を向けると、高い波動の直撃を受ける。
空の向こうを見晴るかすようにずっと見ていると、不思議なことに、意識は自分の中に届くのである。そこはハートの座であり、おかしな言い方であるが、空の向こうに自分がいるのである。
空を見上げると、心は受容的になる。心が広がり、大抵のものは受け入れることが出来るようになるからだ。
せっかく空が見える場所で、ずっとスマートフォンを見ているような人が多いが、実に残念なことだ。
たびたび空を見上げ、受容性が高まると、他惑星の宇宙船や天使も姿を見せるようになるだろう。彼らを見つけるのは、ただ偶然によるのではない。心の受容性で決まるのである。
子供の頃は、授業中に空を眺め、ぼーっとしていると、心の深奥がかえって活性化し、果てしない空の向こうで、天使と話をしているのを感じることがあった。それを想像と言うのだろうが、想像は空想と違う。想像は現実よりリアルなこともあるのだ。
頭を空にして空を見上げていると、胸の中に不意に何かが浮かび、それを忘れずにいると、種子が太陽の熱を感じて、土の中から芽吹くように、あなたも宇宙の根源に向かって伸びるようになるだろう。
都会の空でだって、数多くの天使を見たという人もいる。
見たければ、空飛ぶ円盤だっていつかは見つけることが出来るだろう。
それは、想像以上の体験である。
しかし、空を見上げなければ、決してそれらを見ることはないだろう。
詩や歌の中で、かくも空を見上げるという言葉が出てくるのは偶然ではない。
最も神秘的な体験は、空を見ている時に起こることが多い。
星は本当に囁くし、空は天上の音楽に満ちている。空を見上げるだけで幸福になれるような気がするのである。









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進化した人達の際立った特徴

人間のレベル、進歩の度合い、力といったものを示す最も正確な指標は受容力である。
小泉純一郎さんが総理大臣だった頃、渡辺淳一さんのベストセラー・エッセイ『鈍感力』を閣僚などにも奨めていたことがあったが、人間、無理に鈍感になろうとして成れるものではない。ものごとが気になる人はどうしたって気になるし、過剰に反応する人は反応する。そんな人達は、受容が出来ないのだ。
ガンジーの信条、哲学について、「非暴力」「不服従」「無抵抗」など、いろいろな言い方をすると共に、「いや、無抵抗というのは間違った捉え方だ」などと言う者もいる。しかし、言葉で言うなら、どれも正確ではなく、いずれも正しいとも、正しくないとも言える。所詮、解釈の問題である。そして、やはりガンジーの崇高な理念は受容なのだ。
国民的に人気のあるサッカー選手である三浦知良さん・・・通例に倣ってカズさんと呼ぶが、彼はとても受容力の高い人と思う。フランス・ワールドカップでメンバーを外れた時、カズさんはがっかりはしていたが、周囲の人達とは異なり、不満や批判は一切言わず、単に受け入れていた。ヴィッセル神戸時代、控えグループに回された時も、「控えは控えでやるべきことをやればいいんだ」と言って、誠実に自分の役割を果たした。カズさんは、日韓ワールドカップ以降、代表メンバーから外れているが、その発表の度、「あ、そう。じゃ、次」と淡々としているのは、素晴らしい受容力の現れであると思う。
受容力の高い人間の特徴は、不平、不満を言わないこと。言い訳をしないこと。寛容であること。そして、非常に高い受容に達すれば、無批判に至る。
自分の人間としての力、進歩レベルを評価するのは簡単だ。上に述べたことを調べれば良いだけである。
いわゆる、すぐにキレる(突然に怒る、激情する)人間というのは、おそろしく弱く、レベルが低く、進歩していない人間であることは明白である。

ジョージ・アダムスキーが、本当に宇宙人に会い、その宇宙船に同乗させてもらい、宇宙人達の故郷の惑星に連れて行ってもらったというのが本当かどうかは、もちろん、私に分かるはずがないが、アダムスキーの著書に書かれている宇宙人達の言葉や行いは大変な受容性を示し、極めて高度に進歩した存在であることが感じられるのである。
そして、宇宙人達が、接触をする人間を選ぶ際の基準も、どうやら、受容性であることが示唆されているのである。
単に宇宙人やUFOに興味を持っていたり、面白い体験を求めているだけだったり、ましてや、人々の注目や金儲けのために宇宙人とコンタクトしたい者に、相手が近付いて来るはずがない。宇宙人達は想念を読める(いわゆるテレパシー能力)ので、地球人同士のように、嘘やおだてや駆け引きは一切通用しない。また、テレパシー能力の発達度合いも、コンタクトの条件ではあるらしいが、それは、人間に潜在的にあるものであり、誰でも訓練すれば発達させることが出来る。やはり、決め手は受容力であろう。
そして、受容力を持っていることは、高度に訓練された人間であることも示しているのである。ただのんべんだらりとし、本ばかり読んでいて、現実で鍛えられていない人間に宇宙人達が用があるはずもないだろう。

このブログに普段書いていることは、結局は受容力を高くする方法なのだが、つまるところ、根本的な受容力を得るには、運命を受容することしかない。
我々に人生をコントロールすることは出来ないし、自分の意志でものごとを支配出来ると考える傲慢さが受容性を失わせるのだ。
古代から賢者達が、ものごとを起こるままに任せ、受け入れることが出来る者には、神々すら地に伏して平伏するとまで言うように、それが究極的な理想の姿なのだろう。
では、正義を貫いてはならないのか、悪と戦ってはならないのかというと、それが運命なら、天性のままに戦うしかない。それもまた受容である。
ニートであるなら、ニートであることを受け入れるべきだし、ニートでいたくても働かなければならないなら、それも受け入れないといけない。
「あなたが働く運命でなければ、いくら探しても仕事は見つからないだろう。しかし、働く運命であれば仕事は避けられない」とラマナ・マハルシが言った通りである。









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
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