ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

船井幸雄さん死去に寄せて

今月(2014年1月)の19日、船井総研の創業者、船井幸雄さんが亡くなられたようだ。
私は、十数年以上前から、船井さんの本を1冊も読んでいないが、それまではかなり読んだ。
船井さんというのは、崇拝者と言えるほどのファンが沢山いる一方で、アンチ船井、強烈な否定者というものがかなりいるし、世間でいう常識的な人が船井さんの本を読んだら、程度の違いはあっても、あまり受け入れることはないだろうと思う。
私の周囲にも、船井さんを否定する人はかなりいたし、正直、私もその1人であった。

ただ、船井さんが敬っていたと思われる政木和三さんに何度かお会いした際、船井さんのことを聞いたことがあるが、政木さんは、船井さんをこき下ろすことを言う一方で、力は認めておられたのだと思うし、「欲がなくなればもっと大きくなれる人だ」とも言っておられた。
よくは分からないが、政木さんは父親のような視点で船井さんを見ておられて、船井さんの欠点を惜しいと思っておられたのではないか、そのため、少々辛辣であったのではないかと少し感じるのである。

私は昔、書店でたまたま船井さんの本を手にして、船井さんのことを知った。
その本は、確か、『包み込みの発想』だったと思う。
有名な経営者という社会的立場のある人が、世間常識から外れると思える神秘的なことを、ごく普通のことのように書いておられたことに強い印象を持った。
今でこそ、斎藤一人さんのような巨大な経営者が、大いに神秘的なことを堂々と書いておられるが、当時はなかなかそんなことはできなかったのではないかと思う。
斎藤さんが著書で、「船井さんが好きなら波動も好きだろうが、そんなことはあまり人前で言わない方が良い」と書いておられたことを思い出す。

ところで、上で述べたように、私が初めて船井さんの本を書店で見た時、その中に、マハリシ・マヘーシュ・ヨーギが創始したTM(超越瞑想)という瞑想法を紹介しておられたのが決定打となり、私は、その本を購入した。
当時、私はTMに興味を持ち始めていたからだった。
そして、何年か後だが、TMを始めることになった。

今、私の手元に、『ビジネス未来論』という、5人の著者によって書かれた本がある。
その5人とは、稲盛和夫さん、船井幸雄さん、瓜谷侑広さん、石川光男さん、三村寛子さんである。
その本の初版は1987年とある。
最近も日本航空を再建させた稲盛さんは、当時、55歳の「バリバリ」の時期だったのではないかと思う。
船井さんの章は20ページほどで、船井さんは主に、経営者における直観の重要性について述べておられた。
ただ、直観が良いものであることは、経営者でなくても、誰にでも当てはまることであると思う。
書いてあることは素晴らしく、非常に大切なことばかりで、何も批判すべきことではない。
船井さんは、直観力のある優れた人間になるためには、批判、否定、悪口を言わないことと述べておられた、全く同感である。
ただ、私が知る、かなり優れた経営者でも、批判をよくしたり、悪口を言う人もいる。
だが、それは、彼らの立場や知識から言えば、むしろ相当少ない方なのだと思う。
しかし、それもなくなれば、彼らはもっともっと大きな経営者になれるのかもしれない。
そして、批判、否定、人の悪口をよく言う者には、絶対に優れた人がいないことも確かである。
数年前からの私のモットーは「無批判」である。
なかなか実践はできていないが、これを機に、あらためて取り組もうと思う。









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良い自分と悪い自分

「自分がある」、「自分がない」という言葉には、それぞれ、良い意味と悪い意味がある。

釈迦やイエス、ソクラテスや孔子、あるいは、師や親などの教えを学ぶことは、もちろん良いことだろう。
しかし、「彼らはこう言った」「こう本に書かれている」で終わり、自分でそれが本当に正しいかを確認しない者は、悪い意味で「自分がない」。
一方、教えを学んだなら、それを実践し、それが本当はどういう意味なのかを自分なりに理解し、確信に至った者は、良い意味で「自分がある」。
良い意味で「自分がある」者になるためには、失敗をしなければならない。
失敗の経験がない限り、人は何も分からない。

では、教義や理論を学び、それらを必要に応じて適用し、実践を積み、良い意味で「自分がある」者になったとする。
ここで、名誉や利益を求める者は、悪い意味で、「自分がある」。
だが、学び、経験を積んで賢くなったが、名誉や利益を求めず、自然に手に入るもので満足するなら、良い意味で「自分がない」。このような者は、「無私である」という言い方が相応しい。

まず、学び、実践し、そして、失敗し、経験を積んだ、世俗的に賢い自分を造る。
だが、名誉や利益を求めず、自然に入ってくるもので満足する。
これを無為と言い、そうある者が、尊い意味で自分をなくした無私の者であり、それが、理想的な人間である。

若い時に学ばない者は愚かであるが、学んだことを実践しなければ意味はない。
それどころか、実践しなければ、教えは腐敗してあなたを害する。
実践しないまま、更に学び、更に穢れ、亡者となる。
それが現代の多くの世間の人々の状態である。
その亡者が、名誉や利益を求めて、あがき、争っている。
それが現代の世の中である。

純粋な好奇心から学び、内なる純粋な衝動に従って行動し、失敗して経験を積み、賢くなる。
それで、ものが分かってきたと思っても、名誉や利益を求めず、自然に入ってくるもので満足する。
そのようであれば、鬼神も敬うだろう。









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死の荘厳と生命の輝きを同時に感じる時

我々は、程度の差はあっても、他人に対して抵抗感を持ち、壁を作る。
小さい時に、「知らない人と口をきいてはいけない」と言われ続け、見知らぬ大人はとても恐いものであるという観念を持たされたことの影響もあるのだろう。
それならそれで、せめて周囲の大人達と、もっと接する機会があれば、他人への不安や違和感も和らいだかもしれないが、現代は、そんなことがほとんどできない。
それなのに、一番危ない大人の割合がひどく多いかもしれない学校の先生の言いなりにならざるを得なくなるのであるから、まともな人格形成ができるはずがない。
学校の先生が、最も危ない大人だというのは、おそらく本当だろう。
日本では、教員免許なんてのは、危ない大人にならないと得られない仕組みであるとしか考えられないからだ。
そして、それはもう十分に証明されていると思う。

宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』で、ジョバンニは、後から列車に乗ってきた鳥獲りの男に対し、嫌な感情を持つ。
ジョバンニはその男を邪魔だと感じたのだ。
だが、それは、今の時代の子供が感じるものと同じではないと思える。
それは、見知らぬ人に対する素直な恥ずかしさとか緊張によるちょっとした不快さといったものだろう。
しかし、ジョバンニは、その男のことを悪く思ったことをつらいと感じる。
そして、その男の幸せのためなら、何でもしてやりたいと思う。
だが、ジョバンニは、何が彼にとっての幸せかが分からないことがつらい。
ジョバンニは、もし、それがこの鳥獲りの男の幸福になるなら、百年でも川原に立って、彼の代わりに鳥を獲ってあげてもいいとまで思うのだ。

その後、ジョバンニは、カムパネルラが、かおるという名の女の子と親しく話すのをつらく思い、かおるに嫌な気持ちを持ってしまう。
しかし、それは、自分の心が狭いからであることにジョバンニは気付き、大きな心を持とうと思うが、それもうまくいかずに悲しくなる。
カムパネルラやかおるは、自分がもう死んでいることに気付いているのだろう。
対して、ジョバンニは、彼らが亡くなっていることを薄々とは気付いているかもしれないが、はっきりとは分からないのだろう。
だが、生きているうちに、彼らや、他の死者達と交わったことは、ジャバンニにとって貴重なことだろうし、それは、このお話を読む我々にとっても同じなのに違いない。
ジョバンニが望んだ大きな心を、我々も得られるかもしれない。

冨田勲さんが制作した『イーハトーヴ交響曲』の第5楽章『銀河鉄道の夜』は、この宮沢賢治の小説を音楽と歌で美しく表現していたと思う。
カムパネルラの役を担った初音ミクは女の子ではあるが、むしろその分、カムパネルラらしさがあったかもしれないし、カムパネルラとかおるが融合したと感じるような気がするかもしれない。
おかしな話かもしれないが、私は、『銀河鉄道の夜』(小説)に、渋谷慶一郎さんの、やはり初音ミクをプリマドンナに起用したオペラ『THE END』の『声と言葉のアリア』を適用させても良いと思う。
このアリア(叙情的な独唱)は、単調に感じるピアノの音から始まり、そのピアノの伴奏だけで、ミクが静かに語るように歌い始める。
やがて、ミクの歌に熱が加わっていき、テンポが増すと共に叙情感も高まり、激しい打楽器の音がますます情感を盛り上げていくように感じる。
「私は消えてなくなる」
「あなたを見ることができない」
「一緒じゃなくてもいい」
「会いたかった」
妻を若くして亡くしてしまった渋谷さんや、昭和20年の三河地震で、1月の極寒の中、誰も助けに来ず、救援物資もなく、住む家もなく、人々が死んでいくのをただ見ているしかなかった、中学生だった冨田さんが感じた人の死が、それぞれの作品に込められ、霊的な神秘性となっているのだと感じる。
死の荘厳と生命の輝き・・・それが溶け合うことの意味に比べれば、この世の一切は些細なことと思う。
どこまでも広がる大きな心はそれと共にあるに違いないからだ。









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失敗しなければスキルは得られない

現実的な話として、ある程度の年齢になるまでに、何かしっかりとしたスキルを身につけておくことは、本当に良いことと思う。
30代後半とか40代以上になっても、収入が非常に低い人や、不安定な雇用に甘んじている人が大勢いるが、そんな人達の特徴は、やはり、確固とした特技がないということだと思うのだ。
それなりの技能を持っている人が、そんなに不遇になることはないと私は思う。
世の中には、要領が良く、特に何かできる訳ではなくても、ゆうゆうと仕事をしているように見える人が確かにいる。そんな人達は、確かに頭が良くて器用なのかもしれない。
しかし、それが通用するのは、せいぜいが30歳そこそこまでの若い間だ。
そんな人が、40歳も過ぎているのに、相変わらず小手先の要領の良さで物事を済まそうとしているのを見ると、とても安っぽく見える。それでも、20代の給料で良いのなら、それで良いのかもしれないが、そういう訳にはいかないだろうし、実際は、年齢と仕事のバランスが取れていないと、そこにいられなくなるのだ。もし、いられたとしても、惨めなお荷物でしかない。

特技とかスキルといっても、つまらないものでは駄目だ。
信じられないかもしれないが、昔は、ワープロの専門家というものが本当にいた。
まだ、高価なワープロ専用機があった時代のことで、渡された手書きの原稿を、ワープロで打つだけで、スペシャリストのような顔をしていた者が大勢いたのだ。
しかし、今は、会社のどのパソコンにもワープロソフトが入っていて、誰でも自分で文書を作成できる。
Excelのような表計算ソフトも、普通に使うだけであれば、誰でもでき、多少、細かい機能を使えたとしても、特技でも何でもない。
しかし、やはり、ちょっとExceに強いだけで、それが苦手な人を見ると見下し、自分はパソコンとかITの上級者だといった態度をする馬鹿な者もいる。
Excelなら、VBAをかなり高度に使いこなせれば、それは一応、スキルと言えるだろうが、どうせなら、Access(マイクロソフト)やFileMaker(ファイルメーカー)を徹底して使いこなせるようになれば良い。
簿記であれば、何級の資格とかではなくて、本当に簿記が分かっているというレベルまで勉強し、スキルを磨くと良いが、資格で言えば、2級以上でないとスキルとは言えないと思う。もちろん、それと同等の能力があれば良いのであるが、ついでに資格も取っておくと良いだろう。

だが、いくら資格を持っていても、実戦のスキルにならないことも多い。
TOEIC900点以上でも全く役に立たないことはいくらでもあるが、貿易会社で英語で立派な仕事をしている者にはTOEIC700点も怪しいという人もいくらでもいると思う。
昔、英語で成り上がったように言われていた竹村健一さんは、「僕の英語なんて、素人に毛が生えた程度」とご自分で言われていたし、実際、英語がさっぱりの私が聴いても、竹村さんの英語は、あまり上手くないというか、はっきり言って、下手な英語だと思ったものだ。
だが、竹村さんんは、その英語を、実際に使えるようになっていたのだ。そのためには、英会話教室や英会話アプリで練習するだけでは駄目で、文字通り、実際に使って磨かないといけないのだ。
それは、上で述べたExcelやAccessやFileMakerや、それに、簿記も同じなのだ。
下手でいいから、実践で使い、失敗を重ねることで、実用能力となるのだ。

たった1つで良いから、何か、これと決めたら、それにのめり込むことだ。
起きている間中、それをやることだ。
そして、未熟でいいから、また、こわごわでいいから、実際に使うことだ。
それは、会社にとっては迷惑かもしれないが、気にしないことだ。
失敗し、面目を失い、上司や客に怒られ、その後処理にきりきりまいして散々な目に遭わない限り、本当のスキルは身に付かないのだ。
それに、若いうちの失敗なら、大目に見てもらえるし、会社や上司も、最初からそれほど重い仕事は与えないはずだ。
そして、若いうちはエネルギーがあって、反発力もあり、プライドもあまり高くないので、失敗しても、楽に立ち直れる。
若いうちに、どんどん失敗を経験するべきだ。失敗は若い人の重要な仕事の1つだ。
高度な能力を持っている人ほど、数多くの失敗をしているのである。
超人的な能力を持っているなら、恐るべき失敗をした経験があるはずである。
そんな人と一緒にメシを食いにいったついでに聴いてみると、運が良ければ、さぞや凄まじくも面白い失敗談が聞けるだろう。
メシとは、そんな人と行くべきである。
失敗をする勇気が湧くことになるかもしれない。
そういうのを、本当の意味で「勇気をもらった」と言うのであり、どんなスポーツの試合を見たところで、そんなものが得られるはずがない。









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現実という夢の楽しみ方

中国の古典『荘子』の中に、著者である荘子が、夢で蝶になるという、よく知られた話がある。
荘子は夢で蝶になったのだと思うが、「人間である荘子が夢で蝶になったのか、今、蝶が人間である荘子になった夢を見ているのかは分からない」と述べている。
これを読むと、ほとんどの人は、「荘周が蝶になった夢を見ただけだ」と思う。
蝶には、人間になる夢を見るほどの能力があるとは思えないからだ。

この話には、抜けているところがあるように思う。
実は、荘子は蝶になった夢を見たのではない。
蝶ではなく、蝶と表面的な印象は似ているかもしれないが、それとは全く別の何かになっていたのだ。
だが、人間の脳は、夢でなった何かのことを理解できないので、それにほんの少し近い印象のある蝶になったと翻訳した・・・つまり、記憶を捏造したのだ。
荘子がなったものは、この物質界にある何よりも精妙な身体を持つ、高次元の何かであったのだ。
魂という表現が正しいかどうかは分からないが、魂の姿になったのかもしれない。

あなたは、夢の中で蝶になっても、あるいは、犬や鳥になっても、何の疑問も持たない。
また、王様や人気ロック・スターや宇宙の戦士になっても、それに完全になりきることができる。
子供であれば、アニメのヒーローやヒロインになることもあるだろう。
ところで、今、あなたは人間である。
サラリーマン、学生、医者、隠居、弁護士、ニート、社長、大工等、色々であろう。
そう思っている。
それに何の疑問も持っていない。
これもまた、同じことではないだろうか?
別の次元の何者かが、この物質次元で人間になった夢を見ているのだが、自分が人間というものであることに何の疑問も持っていない・・・それが、今のあなたの状態だ。
この夢の中で、喜んだり、悲しんだり、楽しんだり、嘆いたりするが、目が醒めてしまえば、ただの夢である。
本当のあなたは、天使か、仙人か、宇宙人か、あるいは、神のようなものであるのかもしれない。
少なくとも、夢を見ている本当のあなたは、今のあなたより、ずっと高度で、制限の少ない存在である。
もしかしたら、そんな優れた存在である何者かが、制限があるふりをしたくて、わざと人間になる夢を見るのかもしれない。
しかし、この物質次元では、制限を過度に課してしまうのかもしれない。
だが、もっとライトに人間になった夢を味わえば良いと思う。
そのためには、ある程度は夢である自覚を持つことだ。
しかし、「これは夢だ」と言ったり、思い込もうとするだけでは駄目だ。
物質次元の我々が持っている頭脳は、ある制限がかけられていて、直接的には、自分が夢を見ていることを認識できないのだ。
だから、その制限を回避する方法を取らねばならない。
そのやり方とは、あなたはただ、自分を注意して観察すれば良い。
そうすれば、夢であることが分かる。
ただ、自分を観察する時、自分を初めて見る人として観察しなければならない。
でないと、あなたは記憶という幻想に縛られ、これが夢であることが分からないのだ。

では、夢を楽しんで欲しい。
もし、叶えたい夢があるなら、こうすることだ。
その夢は、実現不可能なことが良い。
そして、こう思うのだ。
「絶対に実現しないとか限らない」
もし、悪い状況になりそうならこう思え。
「そうなっても、必ずしも悪いとは限らない」
この微妙さを習得すれば、この世は、ユートピア、桃源郷、エリュシオン、エデン、ザナドゥなどと呼ばれているものになり、あなたは自由である。









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


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