ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

堂々巡りの人生を戦うための光線銃(武器)を得よ

ラルフ・ウォルドー・エマーソンのような飛び切りの賢者だってそうだと思うが、ジェームズ・アレンにしろ、ラルフ・ウォルドー・トライン(エマーソンに憧れて名を取っている)にしろ、ジョセフ・マーフィーにしろ、何かの本を一冊読んで一発で優れた知恵を得たなんてことは絶対にないはずだ。
きっかけは、何かの体験かもしれないし、それから、まずは何かの書物に答を探したに違いない。
そして、本の教えを自分なりに理解して実践するが、はじめからうまくいくはずもなく、多読したか1つの本に集中したかはともかく、実践の方では、何度も何度も堂々巡りを繰り返したはずだ。
FictionJunction YUUKAの『Silly-Go-Round』という歌の中の、「ゴールのつもりでリセットボタンに飛び込んで 僕らはぐるぐる同じ場所を回ってるんだ」という詩が本当に身につまされるのである。
ビージーズの『Melody Fair(メロディ・フェア)』でも、「Melody, life isn't like the rain, it's just like a merry-go-round. 」(メロディ、人生は雨じゃない。メリーゴーランドみたいなものだ」と歌っていたのを思い出す。

堂々巡りを繰り返すことは悪いことでも、恥ずかしいことでもない。
だが、他人の堂々巡りを馬鹿にするほど愚かなことはない。
そんなことをする者は、自分は堂々巡りから逃げているだけなのだからだ。
1冊の本を読んだり誰かの話を聞いて、一発ワンタッチで真理を悟ることは決してない。
それどころか、何度、同じ過ち、失敗を繰り返しても、少しも向上せず、何も改善されず、全然良いこともなく、時には絶望する。
しかし、それでも勇敢にリセットボタンに飛び込み続けたら、ある日、ブレイクスルーが起こる。
進歩というのは、徐々に、コンスタントに起こるよりは、、ある時一気に訪れることの方がずっと多いのだ。

そして、堂々巡りというのは、辛いだけでなく、楽しいものだ。
上に挙げた、『Silly-Go-Round』も、あるいは、『Melody Fair』も、苦しさや哀しさを歌っているのではあるが、どこか陽気に感じるのである。
私はゲームはしないのだが、コンピューター・ゲームでは、1つのラウンドを戦う中で、1つ、あるいは、いくつかの、アイテムと呼ばれる武器のようなものを得るのだと聞く。
それが、ハードルが上がる次のステージでの戦いに勝つ条件か、あるいは、戦いを有利に進めるためのボーナスなのだろう。
現実世界もそれに似ていて、堂々巡りを繰り返すとしても、その中で何か武器を身に付けなければならない。
そして、次のサイクルでは、新しい武器を得ることもあるだろうが、それよりも、武器を磨いて強力にするのが良い。
私の場合は、武器がコンピュータープログラミングだった。
最初はBASIC言語だったり、C言語だったりしたが、次の舞台ではdBASEになり、dbMAGICになり、今はAccessのVBA言語になった。
今の時代であれば尚更、プログラミングは強力な武器になるはずだ。
これから始めるのであれば、私なら、ExcelのVBA言語という、実にクールな光線銃をお薦めする。

千本桜 夜ニ紛レ 君が歌い僕は踊る
此処は宴 鋼の檻 さあ光線銃を撃ちまくれ
~『千本桜』(作詞・作曲・編曲:黒うさP、歌:初音ミク)より~

いやはや、まさにこの通りと思う。
堂々巡りの人生のステージは檻(おり)であり宴(うたげ)であるが、カーニバル(陽気なお祭り騒ぎ)なのかもしれない。

尚、私は個人的には、FictionJunction YUUKAこそ最高の音楽ユニットで、その音楽を制作(作詞・作曲・編曲)する梶浦由記さんは本当の天才音楽家だと思っている。









↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックで投票をお願い致します。
人気blogランキングへ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ
  
このエントリーをはてなブックマークに追加   
人気ランキング参加中です 人気blogランキングへ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ

世界的名著が人々を不幸にする

ラルフ・ウォルドー・トラインの『In Tune with the Infinite』(無限者と調和して)は、1987年に出版され、世界的なベストセラーになり、現在も読み継がれている。
フォード自動車の創業者ヘンリー・フォードが、自分の成功はこの本のおかげと言い、この本をあらゆる人に薦めたという。
日本では、天才的な宗教家であった谷口雅春さんが荘厳な文語で翻訳し、2012年には口語訳の新訳も出ている。

確かに素晴らしい本であり、読むことは全面的にお薦めする。
ところで、この本の中で、著者トラインは、無限者、即ち、神と調和するためには、それに相応しい考え方が必要と主張している。
つまり、善意ある明るい考え方、楽天性、積極性、不屈の意思・・・といったもので、人間には、こういった思考を選ぶ力があるのだから、そうしなければならないということであり、そうであれば自分の世界を天国にするが、そうでなければ、地獄を創ってしまうと言うのである。
トラインの考え方とは、思考の性質が人生を決めるということだと言って良いだろう。
しかし、私は、そんな考え方は、かえって人々を不幸にしたと思う。

善意ある考え方ができるだずだと言われても、できない人がいる・・・いや、本当は誰にもできない。
私などは、年中悪いことや邪まなことばかり考えている。
善いことを考えるようになりたいと思わないでもないが、一生かかってもできそうもない。
そして、それで良いと言ったのが、法然や親鸞なのだ。
煩悩に満ちた我々凡夫は、善いことは何もできなし、善良な思考をすることも極めて難しく、常に、悪しき想いに囚われている。
だが、至高の仏である阿弥陀如来は、そのような凡夫を哀れに思い、そんな愚かな全ての人を救うために仏になったのだ。
大切なことはただ1つ。阿弥陀如来に全て任せ切ることだけだ。
その徴(しるし)が念仏なのであり、言い換えれば、念仏だけをすれば良いのである。
念仏以外の善を為そうなどと考えてはならない。念仏以上の善などないのだから。
ただし、念仏は自分で為す善ではないので、念仏を自力の修行だと思ってもならない。
念仏は、救っていただいた阿弥陀如来への感謝に過ぎないのである。

それを想えば、ジョセフ・マーフィーは、実に調和ある教えを説いていた。
まず、神は決して罰することはない。
そして、我々は、神が、我々を豊かにする方法、健康にする方法を知っているということが分かりさえすれば良いのだと。
後はただ、任せてしまうだけだ。
マーフィーは、決して伝統的なキリスト教の教義を説く牧師ではなかった。
非常に進歩的な宗教者であったが、それが親鸞的なのである。親鸞がいかにラジカル(急進的)で、当時の仏教界において過激に思われたかが分かろうというものと思う。









↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックで投票をお願い致します。
人気blogランキングへ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ
  
このエントリーをはてなブックマークに追加   
人気ランキング参加中です 人気blogランキングへ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ

鈍感力を得るには愚かな敏感を捨てることだ

首相だった時の小泉純一郎さんが勧めたことで知られる、渡辺淳一さんの著書『鈍感力』は、その「鈍感力」という言葉自体が日本人の間に定着した感じであるが、確かにものごとを気にし過ぎる人や考え過ぎる人は、鈍感になることが大切なことが多いだろう。
しかし、現代は敏感になるべきことで鈍感過ぎる人が多いことは指摘するまでもないだろう。
例えば、歩きながらタバコが吸えるとか、人混みで歩きながらスマートフォンを操作できる、あるいは、電車の中や駅のホームでものが食べられる・・・それも平気で堂々というほど鈍感になれば、もう人間としては終わりである。
そしてまた、現代は、人の気持ちに配慮できない「年齢だけの大人」が増えているような気もする。
普通、未熟な若い間はともかく、ある程度の年齢になれば、自分の言動が相手にどんな感情を起こすかが、いくらかは分かるようになり、優しさからか、何らかの利得のためか、あるいは、モメゴトを避けるためかの別はあっても、他人の感情を害さないよう気を使うものである。
しかし、かなりの年齢になっても、そんな気遣いを全くせず、自分が気持ちが良くて満足でありさえすれば良いという振る舞いしかできない者が増えているのかもしれない。
つまり、日本人の精神年齢が低下しているのであるが、これは、日本人の知性そのものが低下しているということなのだろう。

ところで、人間には、共通して敏感なものがある。
プロレスラーの身長が実際より5センチ以上高く公表され、女性アイドルや女優のウエストは一律58センチというのは、宣伝のためもあるだろうが、そんな数字には、本人も敏感なのだろう。
映画『タイタニック』で、「無垢で何も知らない深窓の令嬢」であるはずの17歳のローズが、意図的に、「どうして男性はサイズにこだわるのかしら」と発言して周囲を仰天させるが、それもまた事実だし、男か女かに関わらず、人は何かの数字に敏感だ。
アメリカンフットボールやラグビーをやっていた人で、逆転のタッチダウンやトライの経験があれば、そのためにボールを抱えて走った距離は、話すたびに(自慢するたびに)長くなる。
もし、那須 与一(なすのよいち)が扇の的を射た話を自分で伝えていたとしたら、その距離は、最初70メートルと言っていたのが、やがて、100メートルになり、彼がじいさんになる頃には200メートルとか1000メートルまで伸びても不思議ではない。
こんなことを、中国では白髪三千丈とか言うことになり、どこの国にも、何事も話半分とか言う格言がある理由だろう。

そして、現代人にはアレルギーが多い。
アレルギーは、何かの物質に対する敏感過ぎる身体の反応である。
だが、信じない人が多いかもしれないが、アレルギーは、精神的な何かに対する敏感さの反映なのである。
その精神的に敏感な何かは、上に挙げた、自分を良く見せるための数字のようなものである。
このことは重要なことだ。

渡辺淳一さんの『鈍感力』には、鈍感であることの効用は書かれていたが、ではどうすれば鈍感になれるのかについては、彼の話はあまり実用的ではないかもしれない。
しかし、上に述べたような自分を飾る数字を捨て、見栄、自負心、面子、プライドを持たなければ、強くなるための鈍感力を得られる。そして、アレルギーも克服できる。
私の知る素晴らしい例を挙げれば、法然が、「私は念仏以外に何も知らず、何もできない」と常に述べていたことだ。
彼は仏教のあらゆる教義に通じた驚くべき博識と知恵で知られていたにも関わらず、そう公言したが、実際に自分でそう思っていたに違いない。
そして、その弟子である親鸞もそうであったのだ。
ところで、コンピュータープログラマがよく、「私が使えるプログラミング言語」として、沢山のものをじゃらじゃら挙げていることがよくあるが、これもまた捨てるべきアレルギーの原因だ。
私なんてVBAしかできないさ。









↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックで投票をお願い致します。
人気blogランキングへ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ
  
このエントリーをはてなブックマークに追加   
人気ランキング参加中です 人気blogランキングへ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ

どんな仕事でもExcel+VBAをマスターすると人生が変わる

私がいろいろな会社の中で接することの多い人達は、総務や経理や、あるいは、何らかの事務業務をしている人達だ。
ところが、それらの人々は、正直、あまり楽しそうに仕事をしていない。
それで、将来、楽しくなる・・・かどうかはともかく、少しは良い思いをするためか、それよりも、長期の雇用の継続を確実にするために、あるいは、漫然と「スキルアップ」のためと考えて、少しは勉強をする人もいるだろう。
そして、今の時代だから、ITに関する勉強をする人もいるかもしれない。
しかし、「何の勉強してるの?」と聞くと、セキュリティだの、ネットワークだの、あるいは、Linuxとか、情報アドミニストレーターとかいった、ひどく的外れな勉強をしている人が多い。
無駄とは言わないが、セキュリティやLinuxの勉強して、業務に役に立ったり、優秀になったり、給料が上がったりするだろうか?
そんことは、先にいったところで滅多にあるもんじゃないし、普通は絶対にない。
いったい、何のために勉強してるんだ?
私は、およそどんな業務をやっている人もだが、特に事務をやっている人なら、コンピュータープログラミングを覚えれば人生が変わると思うのだ。
これは、実際は、事務職に限らず、営業職や、教師や、種々(しゅじゅ)のトレーナー、あるいは、カウンセラー、研究者などでも同じだ。
ところが、たまにプログラミングの勉強をしているという人がいたとしても、やっているのは、JavaだとかRubyとか言う。これも悲しいまでに的外れだ。
数ヵ月後に、システム開発会社に転職の予定でもあれば話は別だが、今の仕事を活かし、今の仕事で有能になって、しっかりとしたキャリアにするためには、ExcelのVBA言語をやるのが、大抵の場合、ほぼ唯一の選択肢である。
JavaやRubやPHPやC#では、顧客のリストすら簡単には作れないし、まして、顧客ごとの製品カテゴリ別売上げ集計や、品質管理の分析処理なんてのは遠い彼方だ。
しかし、Excelを使えばそういったこともできるし、さらには、ExcelでVBAを使えば、優れたものが見事にできるのだ。
そして、適性があれば、Accessに転向して、もっとダイナミックな処理をしたり、プロのプログラマにだってなれる。
VBAでプロになれないなんて言う人もいるが、その者はプロでないか、職業でやっているとしても下っ端だろう。
VBAをきちんと使えれば、やるべき仕事はいくらでもあるし、給料も高くなる。
当を得た(道理にかなった)選択をし、最小限の努力で最大の成果を上げ、楽しく社会を生きるべきである。









↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックで投票をお願い致します。
人気blogランキングへ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ
  
このエントリーをはてなブックマークに追加   
人気ランキング参加中です 人気blogランキングへ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ

女子学生のジーンズ着用が我慢ならなかった教授の問題は何だったのか?

少し昔(1970年代)、ヨーロッパのどこかの大学だったと思うが、ある教授が、学生に講義を始める前に、ジーンズを履いていた女子学生を全員、教室から追い出したことがあった。
彼の言い分では、「男がスカートを履いていたら教室から追い出す。女がジーンズを履くのも同じで馬鹿げたことだからだ」といったことだったと思う。
賛同は少なかったと思う。そして、批判はあっただろう。
しかし、こんなことで正面切って批判、非難、論戦しても仕方がない。無駄なことだ。
では、上に述べたようなことが、その教授の信念なのかというと、それも違うのだ。
この教授は、単に、「女性がジーンズを履くことに対してアレルギーを持っている」というだけのことなのだ。
アレルギーとは、ご存知のように、過剰な免疫反応のことで、何かに対する抵抗性が強過ぎるということだ。
古風な人の中には、女性がズボンを履くだけで抵抗を感じる人もいるだろうが、ほとんどの場合、この教授ほど強い抵抗を持っている訳ではない・・・つまり、アレルギーではない。
そして、この教授が引き合いにした、「男性がスカートを履く」ことへの抵抗性が高い人の方が多いと思うが、それでも、もし、街中でスカートを履いている男性がいたとしてもどうだろう?
珍しいとは思われるかもしれないし、ひょっとしたら「変なやつだ」と思う人が多いとしても、今の時代、ひっ捕まえて説教するほどの抵抗を感じないのではと思う。
私は、どんなファッションでも許されるとは言わないが、男のスカート程度なら、本人が好きならそれでいいじゃないかと思う。

上に挙げた教授は、おそらく、肉体的にもアレルギーを抱えていたのではないかと思う。
アレルギー体質の人というのは、精神的にも過度の抵抗性を持っているものであり、実際の身体的アレルギーの原因はそういった精神的なものなのだ。
このことについて、ちょっと述べてみたい。
皮膚病の人や、皮膚病でなくても、何らかの病気を抱えている人の役に立つと思う。

何度かここでも書いているが、私は幼い頃からの皮膚病で、これがアトピーなのか乾癬(かんせん)なのかは分からないが、最近は、夜、1時間ごとに目が覚めるほどの痒みに苦しめられている。
アトピーにしろ、乾癬にしろ、何らかのアレルギーであると思う。
そして、それは絶対に精神的アレルギーに因するものであると思う。この論は医学的には正しくないのかもしれないが、間違いないと思う。
皮膚病に塗り薬は効かない。効いても一時的なもので、効果を出すためには、どんどん、強くて大量の薬を必要とし、やがて、肌の耐性が限界を超え破壊される。
また、これは、どんな病気も似たようなものと思う。
私もそんな状態だったので、止む無く、抗ヒスタミン剤を服用したら、幼い頃からの強固な痒みがピタリと止まった。
※私が服用したのは小林薬品工業の「ベリー錠」
全く驚きであるが、薬が効いている間は、痒みは無いのである。これまで軟膏薬で傷付けてしまった肌が腫れてひりひりピリピリするが、たとえ少々の激痛であっても、皮膚病の痒みに比べれば天国だ。
ただ、抗ヒスタミン剤は、身体が必要としているアレルギー反応を強制的に停止させるのであるから、反作用がないはずがない。
だが、自分を観察してみると、抗ヒスタミン剤とは、神経的なあらゆる抵抗性を強制的に取り去ることで、アレルギーを起こさないようになっているのだと思われるのだ。
具体的には、脳神経的なものだろう。もっと分かり易く言えば、脳の働きの一部を抑えているのだ。
そして、それはやはり精神性にも影響している。
私の精神アレルギーは、歩きタバコや歩きスマホ、あるいは、人が自分に寄り添ってくることだったが、それらに対する過激な抵抗性が弱くなっている。
つまり、こういったことへの抵抗を、純粋に精神的な手段で解消できればアレルギーは消えるのだろう。
そもそも、あらゆる病気はアレルギー反応なのだと思う。
たとえ癌や、あるいは、風邪1つにしてもそうであるし、明らかに器質性と思われる病気もそうなのかもしれない。
つまり、精神的アレルギーを消せば病気も消えるのである。
「病は気から」なんて曖昧なことを言うと分からないが、「病はアレルギーから」と言えば、病気の原因やその正しい治療法も分かってくると思う。
しかし、精神的アレルギーに打ち勝つのは難しい。
あらゆることを受容する、広く豊かな心が必要である。これは、人間の究極の目標とも言えるほどのものではないかと思う。
最初に述べた、女性のジーンズ着用に対するアレルギーの教授を笑うかもしれないが、我々も同じような変なアレルギーをゴマンと持っているのである。
何事も批判しない受容性・・・これを獲得すれば、あらゆる病気と無縁であるし、社会的、経済的な病気、つまり、人間関係やお金の問題も解決するだろう。









↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックで投票をお願い致します。
人気blogランキングへ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ
  
このエントリーをはてなブックマークに追加   
人気ランキング参加中です 人気blogランキングへ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ
プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
Kay Twitter Home

執筆のご依頼




最新コメント


月別アーカイブ
記事検索
ブログバナー&Mail


メールはこちらへ

PV since 2010/09/08
  • 今日:
  • 昨日:
  • 累計:

人気ランキング参加中
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ
にほんブログ村 メンタルヘルスブログ ひきこもりへ


タグクラウド
QRコード
QRコード