人間は楽しみがなければ生きていけるものではない。
その楽しみを趣味と言っても良いのだが、時々、「俺には趣味などというものはない」と言う人がいる。
それは、趣味という言葉の捉え方の問題であり、趣味という言い方を好まないのなら、励み、創造活動、創作活動、鍛錬、奉仕・・・何と呼んでも構わない。
ただ、それが、受け身であってはならないのだ。
ゲームや漫画でも全く構わないのだが、単に次々に新しいゲームを楽しんだり、漫画を沢山読んで喜ぶだけでは全く駄目である。
それによって、創造的になり、肯定的で受容性が高まらなければならない。
コリン・ウィルソンは、工場労働者という創造的でない仕事が憂鬱で、肉体の疲労以上に毎日、クタウタに疲れてしまっていた。
ただ、彼にとって工場での労働が創造的でなかったというだけで、同じ仕事でも、それで受容的になれれば、創造的になり、エネルギーは高まり幸福でいられる。
しかし、ウィルソンは、子供の時に作ってしまった志向性・・・それはひょっとしたら単なる偏見なのかもしれないが・・・のために、幸か不幸か、工場での肉体労働は彼を満足させなかった。
しかし、家に帰り、クラシック音楽のレコード(大昔のことでCDすらなかった)を聴き、文豪の小説や大詩人の詩を読めば、たちまち、創造的、受容的になり、心身にエネルギーが注ぎ込まれた。
確かに、ウイスキーを一杯飲むという儀式も必要であったが、それは、労働のストレスを瞬時に遠ざけるためであり、本来はなくて良いし、ない方が良かった。
世界最大のオンライン教育サイト「カーン・アカデミー」を運営するサルマン・カーンは、ほんの数年前まではヘッジファンド・アナリストをしていた。
彼は、ヘッジファンドの仕事はやりがいがあったと言っているが、それはむしろ、自分の能力を発揮するのに適していただけで、その時だって、彼は他の楽しみを持っていたから、ヘッジファンドに勤め続けることができたのではないかと思う。
彼は、ひょんなきっかけから、子供達に勉強を教えることに喜びを見出し、そのことで最大の創造性を発揮し、本当のやりがいを感じたのだが、彼にとって、教えることが最も肯定的で受容的になれることだったのだ。
それで彼はヘッジファンドを退職し、教育に専念し、いまや生徒は一千万人をはるかに超え、さらに増え続けるだけでなく、彼は本気で世界の教育を変えるために、さらに創造性を高め続けている。
何かを創り出すことや教えることで、創造力を発揮し、肯定的、受容的になることができる。
しかし、まずは、自分自身で創造してみなければならない。
音楽をただ聴くよりも、下手でもいいから自分で演奏したり、作詞や作曲をするのが良い。
自分で音楽を創り、初音ミクに歌わせることで創造性を伸ばし、素晴らしいアーチストになった人も沢山いるが、初音ミクには、人々の創造性を引き出し、肯定的、受容的にさせる力があるに違いない。
そして、自分が創造性や受容性を極めたら・・・・それは必ずしも華々しい成果をもたらさなかったかもしれないが・・・今度はそれを教えることで、さらに精神を高めることができる。
押し付けがましい教え方をする者は、まだ自分の創造性や受容性を十分に開発していない者だ。
学校教育というものは、そんな連中によって行われてきたのだろう。
だから、町の工場の技術者といった、多少の創造性や受容性を磨いている者が教壇に立つと、生徒達は、教師達の時よりはるかに目を輝かせて話を聞くのである。
ビル・ゲイツやスティーブ・ジョブズ、あるいは、サルマン・カーンのように、仕事そのものが創造性と受容性を高めるものであれば良いのだが、そうでなければ、かつてのカーンのように、生活のための仕事とは別の創造活動を持つべきである。
それは、決して、受け身の、個人的な楽しみだけの趣味であってはならない。
新しい知識を増やし、粘り強く無限の工夫をし、心が拡大して自分をちっぽけなものと感じることがなく、不平不満を忘れ、疲れを知らないようでなければ、それは本物ではない。
個人的、肉体的、刹那的な楽しみに溺れることを完全に拒否し、そういった本当の楽しみを持たなければ人間とは言えないのである。
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その楽しみを趣味と言っても良いのだが、時々、「俺には趣味などというものはない」と言う人がいる。
それは、趣味という言葉の捉え方の問題であり、趣味という言い方を好まないのなら、励み、創造活動、創作活動、鍛錬、奉仕・・・何と呼んでも構わない。
ただ、それが、受け身であってはならないのだ。
ゲームや漫画でも全く構わないのだが、単に次々に新しいゲームを楽しんだり、漫画を沢山読んで喜ぶだけでは全く駄目である。
それによって、創造的になり、肯定的で受容性が高まらなければならない。
コリン・ウィルソンは、工場労働者という創造的でない仕事が憂鬱で、肉体の疲労以上に毎日、クタウタに疲れてしまっていた。
ただ、彼にとって工場での労働が創造的でなかったというだけで、同じ仕事でも、それで受容的になれれば、創造的になり、エネルギーは高まり幸福でいられる。
しかし、ウィルソンは、子供の時に作ってしまった志向性・・・それはひょっとしたら単なる偏見なのかもしれないが・・・のために、幸か不幸か、工場での肉体労働は彼を満足させなかった。
しかし、家に帰り、クラシック音楽のレコード(大昔のことでCDすらなかった)を聴き、文豪の小説や大詩人の詩を読めば、たちまち、創造的、受容的になり、心身にエネルギーが注ぎ込まれた。
確かに、ウイスキーを一杯飲むという儀式も必要であったが、それは、労働のストレスを瞬時に遠ざけるためであり、本来はなくて良いし、ない方が良かった。
世界最大のオンライン教育サイト「カーン・アカデミー」を運営するサルマン・カーンは、ほんの数年前まではヘッジファンド・アナリストをしていた。
彼は、ヘッジファンドの仕事はやりがいがあったと言っているが、それはむしろ、自分の能力を発揮するのに適していただけで、その時だって、彼は他の楽しみを持っていたから、ヘッジファンドに勤め続けることができたのではないかと思う。
彼は、ひょんなきっかけから、子供達に勉強を教えることに喜びを見出し、そのことで最大の創造性を発揮し、本当のやりがいを感じたのだが、彼にとって、教えることが最も肯定的で受容的になれることだったのだ。
それで彼はヘッジファンドを退職し、教育に専念し、いまや生徒は一千万人をはるかに超え、さらに増え続けるだけでなく、彼は本気で世界の教育を変えるために、さらに創造性を高め続けている。
何かを創り出すことや教えることで、創造力を発揮し、肯定的、受容的になることができる。
しかし、まずは、自分自身で創造してみなければならない。
音楽をただ聴くよりも、下手でもいいから自分で演奏したり、作詞や作曲をするのが良い。
自分で音楽を創り、初音ミクに歌わせることで創造性を伸ばし、素晴らしいアーチストになった人も沢山いるが、初音ミクには、人々の創造性を引き出し、肯定的、受容的にさせる力があるに違いない。
そして、自分が創造性や受容性を極めたら・・・・それは必ずしも華々しい成果をもたらさなかったかもしれないが・・・今度はそれを教えることで、さらに精神を高めることができる。
押し付けがましい教え方をする者は、まだ自分の創造性や受容性を十分に開発していない者だ。
学校教育というものは、そんな連中によって行われてきたのだろう。
だから、町の工場の技術者といった、多少の創造性や受容性を磨いている者が教壇に立つと、生徒達は、教師達の時よりはるかに目を輝かせて話を聞くのである。
ビル・ゲイツやスティーブ・ジョブズ、あるいは、サルマン・カーンのように、仕事そのものが創造性と受容性を高めるものであれば良いのだが、そうでなければ、かつてのカーンのように、生活のための仕事とは別の創造活動を持つべきである。
それは、決して、受け身の、個人的な楽しみだけの趣味であってはならない。
新しい知識を増やし、粘り強く無限の工夫をし、心が拡大して自分をちっぽけなものと感じることがなく、不平不満を忘れ、疲れを知らないようでなければ、それは本物ではない。
個人的、肉体的、刹那的な楽しみに溺れることを完全に拒否し、そういった本当の楽しみを持たなければ人間とは言えないのである。
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