ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

意欲なしに繰り返せることだけが本物だ

もし自分が本当の愚か者で、どんなことも務まらないと思うなら、しかし、考えることもなく正しい答を出せるようになろうと思うなら、『老子』か『バガヴァッド・ギーター』を千回読んでみると良い。
『老子』が短い81の詩で、『バガヴァッド・ギーター』は対話の形で描かれた、18章の叙事詩。それでも、一章はそんなに長くない。
中将姫は『阿弥陀経』を千回写経したという伝説があるが、彼女は他にすることが何もなかった。
私も、別に何もすることはないのだけれど、いずれも、とてもできるとは思えない。
そのようなことができるのは、そのような星の元に生まれた者だけだろう。
なぜ私にできないかというと、成し遂げようと意図するからだ。
本当にやってしまったら、どんな人も従うことになる。
鬼神も天の神も地の神も従うのだからだ。
人が従わないわけがない。
それを知って、別になんとしてもやり遂げようなどと思わずに、意欲も熱望もなくただ繰り返す者なら、それをやりおおせることだろう。

どんなことでも良いのだが、それを為し終えると、全てのものがなくなってしまう。
床も天井も壁も、身体も心も全部だ。
全て透明になって消えてしまう瞬間、あなたは全くの別の人に生まれ変わり、世界も全て変わってしまっている。
そして、全て分かってしまう。
「死とは何か?」
「終わりとは何か?」
それは、初音ミクのオペラ『THE END』の荘厳なテーマだったように思うが、ミクが「これから行く、光に溢れた場所」、「私の身体がここで溶けていくこと」が何か分かってしまう。
私が、そんなことを知ろうと意図しなくなれば、全部分かってしまうことだろう。
全身全霊でやれば、念仏を称えているうちに、そうなってしまった人もいる。
魂の中には時間というものがないのだからだ。
本当は、時間は心の中にしかないと言った方が正しいのかもしれないが、全身全霊は死の世界だ。
そこに心はなく、心がなければ時間はなく、時間がなければ物はなく、物がなければ空間もない。
あらゆる可能性が原因のまま留まる世界だ。
要は、何も意図せずに、ただやってみるということになる。
そんな簡単なことに、死ぬまで気付かない人が多くなってしまった。
だから、とても簡単なのだ。
神を信じれば良いが、茶碗は洗っておくことだ。
そんな禅語があったように思う。









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本当に生きている喜びを感じるには

生きていることの喜びを魂から感じることができる本当に楽しいことをしたいなら、それは無償の行為でなければならない。
天才的な知識、思考力、想像力を持った南方熊楠が、自分の学問を決してお金にしなかったのは、彼は何より、本当に生きていようとしたからだ。

今は、純粋なアマチュアスポーツがなくなった。
人気が出て儲かるとなると、ハイエナのような連中が(ハイエナに失礼だが)、金のために仕掛け、捻じ曲げ、分断し、囲い込み・・・といった作為で、本来、天然であるべきものを人工化し、選手の方も、世間の栄光と利益の欲望に平伏し、もうそこには、神聖なものは全て消え失せ、選手もファンも、生命の輝きという、一番大切なものを失ってしまうのだ。

全身の血が燃えるような「あの感覚」を得るには、権威、賞賛、利益といった世間の報奨を完全に忘れていなければならない。
即ち、大人(世間の価値感に凝り固まった者)には笑われ、馬鹿にされ、金を得ることが決してないようなことを、ただ楽しいからという理由だけで本気で全力でやることで、生命力は満たされる。
生活のためには、サラリーマンであれば我慢して会社に勤め、学生なら現実的なバイトをし、ニートなら立派なジゴロにでもなることだ。そうえいば、邱永漢さんも「女に食わしてもらえるのも立派な才能」と著書に書かれていたように思う。まあ、このあたりは私は実際にやったことがないので、話半分に受け取って欲しいが。

無償ではあっても、本当に楽しいことをして生命力が充実していれば、辛い現実にも耐えられるようになる。
会社や学校や、あるいは、ニートの生活がどれほど辛いものであっても、静かに笑ってやり過ごせるようになるし、ニートであれば、ジゴロ・・・でなくても良いが、自分で生活できるようなことも見つかるだろう。
あくまでシンボル(象徴)に過ぎないが、『神様のメモ帳』という小説の中に、いかしたニート達が沢山登場する。
ジゴロ、パチプロ(パチンコなどのギャンブルで生活する者)、軍事オタク、少年ヤクザ・・・などといった、最低の人間達なのだが、これが実に楽しそうで生き生きとしている。
ひょっとしたら、彼らは、世間的なことは何もできないかもしれないが、世間の規格を外れたこととなると、恐ろしく有能である。
そのボス的な地位にいるのが、女神のようなニート探偵の少女で、全知全能のようであると同時に、1人では洗濯も入浴もパジャマをたたむ・・・などといったことはもちろん、割り箸を割ることも満足にできず、食事を全くせずにドクターペッパー(炭酸飲料の一種)しか飲まない。
主人公の高1男子は、クラスメイトと会話ができず、学校の勉強には全く興味のないニート予備軍。
読んでいると、普通の学生やサラリーマンなら、何か憧れや羨望を感じることだろう。
これを参考に、何か自分のやるべきことを探すと良い。
すると、ベートーベンの『歓喜によせて』で歌われたシラーの詩の意味も分かるようになるかもしれない。









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コンピュータープログラミングの本当の楽しさとは何か

ネットのあちこちで、コンピュータープログラミング教育の必要性なんてものが主張されている。
ところで、昨年12月の、アメリカのコンピューターサイエンス教育週間で、オバマ大統領が、全ての人がプログラミングを学ぶべきだという演説をしたという記事をよく見るのだが、オバマ大統領は、あくまで、「若いアメリカ人にコンピューターサイエンスを学んで欲しい」と言っただけだ。
どこまでも、アメリカの将来のためにね。
MIT(マサチューセッツ工科大学)の学習科学の権威ミッチェル・レズニック教授が、「コンピュータープログラミングの能力は読み書きの能力に等しいのだから、全ての人がプログラミングを学ぶべきだ」と言ったのは本当らしい。
エリートらしい高慢な言い方だ。
誰かは知らないが、やはり、コンピューターの専門家が、「プログラミングができたらコンピューターを使えるけど、そうでなければ、コンピューターに使われているのだ」といったようなことを言ったらしい。
そんなことを言っている者は、コンピューターより、もっとタチの悪い人間に使われているのではないのかなあ?
他にも、国の未来の産業の発展のために、子供達にプログラミングをさせようとか言っていたと思うが、子供達を、そんな我利我利亡者のいいなりにさせたくないものだ。
また、子供達にプログラミングを教えているある会社では、子供達をそそのかし、優秀な子にコンピューターの本質に何の関係もないスマートフォンアプリを作らせて優越感を与え、思い上がらせて宣伝に利用しているとしか思えない。

コンピュータープログラミングの、コンピュータープログラミングらしい楽しさは、利益とも賞賛とも何の関係もない。
正しいプログラミングをすれば期待通りの結果となり、誤ったプログラミングをすれば予期せぬ結果となる。
それは、誰がやってもそうなる。
そんな公平で中立な存在を相手にすることは素晴らしいことなのだ。
初音ミクの声は、なぜか心に沁みるという。
ミクには自我がないからだ。
コンピュータープログラミングの本当の楽しさは、それと同じことだ。
上に挙げた人達によって、欲望のプログラミングをさせられると、それが分からない。
私は考え方を変えることにした。
あなたも、私のように、新しい自分になって、プログラミングを始めていただきたいと思う。









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嫌われてできる仕事なんて1つもない

「嫌われる勇気を持て」と言われることがある。
岡本太郎は、「嫌われたっていい。いや、嫌われないといけない」と言ったようだ。
しかし、営業が客に嫌われていたらどうしようもないし、ファンに嫌われる俳優や歌手などあり得ない。
「職人は腕さえ良ければ良い」と言ったところで、客に本当に嫌われたら、何も作らせてもらえない。
表面的には嫌われる職人がいたとしても、その職人が活躍しているなら、やはりどこか好かれているものである。
ヤクザは誰からも嫌われるが、ヤクザの世話になった人から聞くと、人々に嫌われる分、内部は家族のようで、普通の家よりずっとまともだったという人を実際に知っているが、そのヤクザの組が例外であったということはないと思う。
プロスポーツ選手は実力さえあればいいのかというと、それはとんでもない話で、プロであれば、ファンに好かれるのも仕事の内だし、実際は、あらゆるスタッフに好かれないとやっていけるはずがない。また、本当に優秀な選手は、他の選手からも好かれるものである。

ところが、学校では、生徒に嫌われる教師がいるのだから呆れたものである。
上に述べたことからも明らかであるが、生徒に嫌われて教師ができるはずがない。
「生徒に媚びて教師はやれない」という教師がいるなら、その教師は幼稚園児レベルなのだから、間違っても教師にしておいてはならない。
あるいは、「全ての生徒に好かれるのは無理」と言う者がいるかもしれないが、それも子供の言い分だ。
そもそも、教師の仕事は生徒に好かれることと言って間違いない。
言い方を変えれば、嫌われている生徒に対しては教師ではないのである。
もし、30人の生徒の内、3人に嫌われているなら、給料1割カットでは済まないはずだ。
学校の制度や仕組みの欠陥という問題もあるのかもしれないが、1割の生徒に嫌われるなら、給料を渡すのではなく、罰金を取って当たり前である。
教えるという行為は、高度なコミュニケーションなのだから、嫌われてコミュニケーションが成立するはずがない。

最初に帰るが、岡本太郎の「嫌われないといけない」という言葉の、自分を嫌う相手とは世間の人々や権威者である。
それは全く正しい。
いや、正しかった。
しかし、時代は変わるのだ。
世間の人々や権威者にすら、今や好かれないといけない時代なのだと思う。
岡本太郎は、彼の時代においては素晴らしい人物であったが、今の時代では通用しない。
それに、本当のところは、岡本太郎自体、世間からも権威からも好かれていたのだ。
権威者の中には、岡本太郎を嫌悪した人もいただろうが、そんな人は、実際は自分に対して嫌悪したのであり、心の奥では岡本太郎が好きだったのだ。

では、どうすれば好かれるのだろう?
「自分を好きにならないといけない」と言う者がいたら、私はそいつを本当に殴りたい。
「相手のことを好きになれ」と言う者がいたらそれは偽善者だろう。そんなことができるはずがない。
自分のことなんかどうでもよろしい。
自分のことは忘れないといけない。
自分にこだわる者に愛することはできない。
そして、嫌いな相手は、自分を簡単に殺すことができる権威者だと思わないといけない。
いや、実際そうなのだ。
あなたが嫌いな相手というのは、容易くあなたを殺せるのだ。
嫌いな相手に対しては、残虐な暴君に対するように接しなければならない。
やり方は、荘子にでも学ぶと良いと思う。









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新しい文化が花咲く時

第二次世界大戦の敗北で、日本の文化の全ては否定され、アメリカの文化が押し付けられたのだという。
しかし、冷静でよく考えてみれば、だからと言って、日本人がアメリカ人らしくなったとか、欧米化したなどとはとても思えない。
昔のことではなく、今のほとんどの若者だって、西洋人の真似をしたって、ちっともサマにならない。
そりゃ、美しいコは何着ても、何やっても似合うが、やはり、アメリカ人の雰囲気とは違うのだ。

外見だけでなく、良くも悪くも、いまだ日本人は付和雷同で、個人の権利をとことん主張するアメリカ人にはついていけないはずだ。
資本主義の歴史が何十年だろうが、ほとんどの日本人は資本主義を理解などしておらず、投資なんてものには向いていないのだ。

だからといって、日本の伝統が生き続けているかというと、それも違うのだ。
確かに、敗戦によって、日本の文化は消えてしまった。
今の我々が思う日本文化と、昔の真性の日本文化は全く違うものだ。

つまり、今の日本人は、古くからの民族の伝統を継承した日本人ではないが、アメリカ人になったのでもない。
事実を言えば、アメリカの真似をして、継ぎはぎだらけの、いびつなまがい物の文化を築いただけなのだと思う。
だから、すごく不安定だし、もろいし、美しくない。
だが、嘆くには及ばない。
伝統的な日本の文化が幻想なら、アメリカの文化も、その他のどの国の文化も幻想なのだ。
不安定な文化を持っているからこそ、我々にはそれが分かる。
我々は、従来からある幻想の文化を全て捨て去り、新しい、本当に優れた文化を創っていけるのだ。
それは、世間の教義や信念に従わず、自然に学ぶことで可能となることだ。
我々は、新しい文化の華を咲かせることができるだろう。
少なくとも、何かの文化の真似をするくらいなら、自分の好みの文化を持てば良い。
それは多少個性的には見えても、自分がそれに本当に馴染んでいれば、決して奇異には見えないものだし、むしろ、憧れられるだろう。
そして、それはむしろ、理想的な文化に近いのである。









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
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