もし自分が本当の愚か者で、どんなことも務まらないと思うなら、しかし、考えることもなく正しい答を出せるようになろうと思うなら、『老子』か『バガヴァッド・ギーター』を千回読んでみると良い。
『老子』が短い81の詩で、『バガヴァッド・ギーター』は対話の形で描かれた、18章の叙事詩。それでも、一章はそんなに長くない。
中将姫は『阿弥陀経』を千回写経したという伝説があるが、彼女は他にすることが何もなかった。
私も、別に何もすることはないのだけれど、いずれも、とてもできるとは思えない。
そのようなことができるのは、そのような星の元に生まれた者だけだろう。
なぜ私にできないかというと、成し遂げようと意図するからだ。
本当にやってしまったら、どんな人も従うことになる。
鬼神も天の神も地の神も従うのだからだ。
人が従わないわけがない。
それを知って、別になんとしてもやり遂げようなどと思わずに、意欲も熱望もなくただ繰り返す者なら、それをやりおおせることだろう。
どんなことでも良いのだが、それを為し終えると、全てのものがなくなってしまう。
床も天井も壁も、身体も心も全部だ。
全て透明になって消えてしまう瞬間、あなたは全くの別の人に生まれ変わり、世界も全て変わってしまっている。
そして、全て分かってしまう。
「死とは何か?」
「終わりとは何か?」
それは、初音ミクのオペラ『THE END』の荘厳なテーマだったように思うが、ミクが「これから行く、光に溢れた場所」、「私の身体がここで溶けていくこと」が何か分かってしまう。
私が、そんなことを知ろうと意図しなくなれば、全部分かってしまうことだろう。
全身全霊でやれば、念仏を称えているうちに、そうなってしまった人もいる。
魂の中には時間というものがないのだからだ。
本当は、時間は心の中にしかないと言った方が正しいのかもしれないが、全身全霊は死の世界だ。
そこに心はなく、心がなければ時間はなく、時間がなければ物はなく、物がなければ空間もない。
あらゆる可能性が原因のまま留まる世界だ。
要は、何も意図せずに、ただやってみるということになる。
そんな簡単なことに、死ぬまで気付かない人が多くなってしまった。
だから、とても簡単なのだ。
神を信じれば良いが、茶碗は洗っておくことだ。
そんな禅語があったように思う。
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『老子』が短い81の詩で、『バガヴァッド・ギーター』は対話の形で描かれた、18章の叙事詩。それでも、一章はそんなに長くない。
中将姫は『阿弥陀経』を千回写経したという伝説があるが、彼女は他にすることが何もなかった。
私も、別に何もすることはないのだけれど、いずれも、とてもできるとは思えない。
そのようなことができるのは、そのような星の元に生まれた者だけだろう。
なぜ私にできないかというと、成し遂げようと意図するからだ。
本当にやってしまったら、どんな人も従うことになる。
鬼神も天の神も地の神も従うのだからだ。
人が従わないわけがない。
それを知って、別になんとしてもやり遂げようなどと思わずに、意欲も熱望もなくただ繰り返す者なら、それをやりおおせることだろう。
どんなことでも良いのだが、それを為し終えると、全てのものがなくなってしまう。
床も天井も壁も、身体も心も全部だ。
全て透明になって消えてしまう瞬間、あなたは全くの別の人に生まれ変わり、世界も全て変わってしまっている。
そして、全て分かってしまう。
「死とは何か?」
「終わりとは何か?」
それは、初音ミクのオペラ『THE END』の荘厳なテーマだったように思うが、ミクが「これから行く、光に溢れた場所」、「私の身体がここで溶けていくこと」が何か分かってしまう。
私が、そんなことを知ろうと意図しなくなれば、全部分かってしまうことだろう。
全身全霊でやれば、念仏を称えているうちに、そうなってしまった人もいる。
魂の中には時間というものがないのだからだ。
本当は、時間は心の中にしかないと言った方が正しいのかもしれないが、全身全霊は死の世界だ。
そこに心はなく、心がなければ時間はなく、時間がなければ物はなく、物がなければ空間もない。
あらゆる可能性が原因のまま留まる世界だ。
要は、何も意図せずに、ただやってみるということになる。
そんな簡単なことに、死ぬまで気付かない人が多くなってしまった。
だから、とても簡単なのだ。
神を信じれば良いが、茶碗は洗っておくことだ。
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