ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

星と星の上の砂埃の違いとは

優れた人間の特長(優れた特徴)は「規則的」で、駄目な人間の特徴は「不規則」だ。
これは、万に一つの例外もない。
学校や会社に、毎日必ず同じ時間に登校、出社し、同じ時間に下校、退社する者は優秀だ。
優秀とは、必ずしも成績や仕事の成果とは限らない。
それをもっと超えたものであり、雰囲気とか貫禄に現れる。
ただ、多くの場合は、成績や業績に現れる場合が多い。
もし、規則正しいのに、うだつが上がらないなら、いずれ、その者はそこを去ることになるだろう。

学生やサラリーマンと違い、時間が自由になる立場の者でも、優秀な者は極めて規則的だ。
売れっ子というのは、1日中寝る間もなく働いたり、外部的な要因でスケジュールが決まることもあるが、それでもやっぱり規則的になってくる。
一流の作家は、サラリーマン以上に厳密に、決まった時間通りに仕事をするようだが、それは当然のことだ。
大発明をする科学者は、成果が出る前の貧しい時であっても、完全に規則正しい時間に、研究や生活をしているものだ。

もし、起床時間、登校・出社時間、食事の時間、下校・退社時間、就寝時間すら規則正しくないようなら、人生が順調な方がおかしい。
一流の人物は、12時に昼食と決まっていたら、何をしていても12時ぴったりに昼食にする。
駄目な人間は、12時を過ぎてもだらだら仕事をしている。
一流の人物は、午後6時退社と決まっていたら、その時刻には必ず仕事をやめて帰る。
三流以下の人間は、退社時間が来てもぐずぐずして帰らず、ひどいのになると1時間近く(あるいは以上)だらだら居残り、しかも、帰る時間が不規則だ。

言うまでもなく、不測の事態というものはあるし、それでどうしても時間が乱れることはあり、しかも、そんなことが頻繁に起こる人もいるだろう。
しかし、例えば、仕事を終える時間がどうしても変動する場合でも、開始時間や昼食時間はなるべく厳守するようにすれば、不思議なことに、だんだんと全て規則正しくやれるようになる。
つまり、状況に支配されるのではなく、状況を支配するようになる。
ここが肝心なのだ。
規則正しい生活ができるように状況を支配できるようになれば、あらゆるものごとに対して支配する力がついたということなのだ。
規則正しさがより厳密で、それが長期間におよぶほど、世界を動かす力は増大していく。
世界に対して大きな影響を与える者ほど時間に正確である。
世界一忙しい人物のスケジュールは厳密なのに、暇な人間は放埓(勝手きまま)なのである。

仕事に就けないニートは、単に生活の時間が不規則だからだ。
ニートでも、生活が規則正しいなら、ちゃんと収入もあって楽しく生活している。
さらに、起床時間は早いほど、ランクは上がる。
6時や7時起きなら平凡で、8時起きなら、何をやっても駄目だろう。
一方、5時起きなら優秀で、4時起きなら超優秀だ。
だが、それは1年365日においてでなければならない。
気紛れに早起きしたりはもちろん、「大体4時起き」でも何の意味もない。
「大抵5時には起きている」なんて言って、8時に起きるということもあるなら、8時起きと同じである。
尚、退社時間は早ければ早いほど良く、会社の就業時間が5時までなら、5時にぱっと仕事をやめ、3分後に帰るのが最上だ。
駆け出しで仕事ができないので、どうしても遅くまでいたり、起業して深夜まで働かざるをえないという時期はあるが、優れた者は、やがてまっとうな時間で規則正しくなってくる。そうならないなら、ずっとうまくいっていないということだ。
一流の作家は、毎日決まった時間に決まっただけ書くが、決まった以上は書かないものらしい。

凡庸な人間を脱したいなら、特別なことを、決まった時間に決まっただけやるようにすることだ。
ある世界的な数学者は、毎朝決まった時間に決まっただけ念仏を称えていたらしい。
また、ある有名なエッセイストは、コンサルティング業で独立したが1年間客がなかった時も、勤務時間は厳格で、ノルマを決めて何か書いていたらしい。
社長が7時半までに出勤する会社で倒産した会社は無いという話を聞いたことがあるが、それは自然なことと思う。
大手出版社を起こしたある人物は、サラリーマン時代、何があっても5時退社を厳守したという。
星のように規則正しければ、自らが星なのである。
星の上の小さな炎や砂埃のように不規則なら、埃のように小さい人間である。









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聖人の気高い行いに涙する者は偽善者である

「Aさんは無責任だ」と言う人で、Aさんと同じくらい無責任でない者は絶対にいない。
「Bさんは傲慢だ」と言う人は、万に一つの例外なく、Bさんと同等に傲慢だ。
それどころか、非難する度に、その欠点は大きくなる。
「C君は思いやりが無いね」といつも言う教師は、間違いなく、C君よりも思いやりがない。

傲慢、無責任といった欠点を感じる相手に対してどうすれば良いのだろう?
ただ大目に見ることだ。
「そんなことを言っていたら、教育や指導ができないではないか?」
と言うなら、そんなものしなくて良いと言っておく。
神を恐れよと言いたい。
相手と同じ欠点を持つ者が、どんな指導をしようというのだ?
教育ってのは、生きていくために必要な技術やルールを教えることであり、無責任を矯正する教育など、この世にも、どこの世にもないのだ。
良識は世界が教えてくれる。
良識がないと、悪いことばかり起こって苦しむだろう?
だが、良い教師は、そこにいるだけで苦しみを克服するための手助けができるのだ。

最近、「僕は何をやっても駄目なんです」と言われることがよくある。
そんな時、私は思うのだ。
「意気地がないな」
それは、自分に対してである。
教育というのではないが、そんな相手には何を言えば良いだろう?
アメリカの自己啓発プログラムでは、「あなたは本当は素晴らしい」とか言うのだろう。
逆効果も甚だしいことだ。
自分が駄目だと思っている相手には、
「君は少しも駄目じゃない。自分でそう思っているだけだ」
とだけ言ってやれば良い。

私は言われることはないが、「君は優秀だな」と言ってくる者がいたら、何か魂胆がある・・・とまでは言わないが(言ってるも同然だが)、まともな評価ではないから喜ばない方が良い。
本当に優れていると思っている相手に対しては、畏怖してしまって、そんなことは言えないものだよ。

相手の美点を無理に見る必要はない。
まして、相手の良いところを見つけようなんて寝言をほざく気は毛頭ない。
それほど馬鹿げたことはない。
同じ美点を持っていない限り、相手からそれを感じることは決してない。
純粋に、「あの人は優しいなあ」と思う者は、もうすでに同じくらい優しいのだ。
本当のことを言うと、誰でも全ての美点は最初から持っている。
しかし、他人の良いところを見ようなんて者は、人間の優れた性質に違和感を感じているのだ。
そんな人にとっては、良心というものが、変な色の傘のように、単に珍しいのだ。
人間の内に秘められた美しさを自然に感じられるなら、それをことさら問題にしないはずだ。
聖人の気高い行為に涙する者は、やっぱり偽善者だ。
その手の話に涙もろい私が言うのだから間違いないだろう。
聖者にとって聖者の行いは、水が高いところから低いところに流れるように自然なことなのだ。
そして、本物の聖者は、高貴な行いを笑う者のことは、そのまま受け入れるし、未熟な賢者であっても、愚か者を大目に見るのである。









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魔の公式

魔法の杖が欲しいと思うのは、幼いうちだけだろう。
子供には信じられないが、大人になると、魔法の杖を信じないというのではなく、本当にそんなものは欲しくないと思うものだ。
ただ、いつの時代も、精神が幼い大人が沢山いるので、「魔法の杖をやろうか」と言われて簡単に騙されるのである。

魔法の杖と似ているように見えるが、真逆のものである、「魔の公式」というものはある。
人間の最高の精神性とは、受容性だ。
「ものごとをあるがままに受け入れる」
「起こることを起こるままにさせておく」
「全て善し」
こんな精神、つまり、受容性のことを本当の徳という。
しかし、これを持つ者はほとんどいない。
悟り済ました顔で「これでいいのだ」と言ったところで、心の中では、
「こうでなかったらなあ」
と思っている。
そして、先のことに関し、
「こうなったらなあ」
と思う。
それは受容性が弱いということで、精神レベルが低いのである。

魔の公式とは、受容性に導くものだ。
木枯し紋次郎がいつも使っているものだ。
だから、彼は結局のところ無敵なのだ。
無敵ってのは、赤ん坊相手に喧嘩することではない。
猫が虎相手に喧嘩したって無敵であることもある。

受容性に導く魔の公式とは、人間の悪の肯定だ。
木枯し紋次郎流に言うなら、
「人間って、そんなものじゃねえんですかい?」
ということだ。
「世の中って、そんなものじゃねえんですかい?」
とも言うが、ここで言う世の中とは、「人間が作る世の中」という意味であり、これも結局は、、
「人間って、そんなものじゃねえんですかい?」
ということなのである。
だが、ものごとと人間の営為との関係が分かり難い時は、無理せず、
「世の中って、そんなものじゃねえんですかい?」
「人生って、そんなものじゃねえんですかい?」
と思えば良い。

塩村議員が都議会で野次を飛ばされた件で、大変お怒りになられていたが、犯人を暴いて、何か良くなるだろうか?
そんなことをしても、皆が不幸になるだけだ。
野次を飛ばした者も、塩村議員も、野次馬も全部だ。
あの野次が、他の野次に比べてどこか違うだろうか?
「いえ、あれは女性の尊厳を傷つけているのです」
と言ったところで、世の中、女性の尊厳を傷付けているものだらけじゃないか?
つまり、
「世の中って、そんなものじゃねえんですかい?」
ということであり、もっと純粋に言えば、あの野次を飛ばした議員や女性を蔑視する者のことは、
「人間って、そんなものじゃねえんですかい?」
ということでしかない。

電車の中で、杖を持った老人が立っているのに、若くて健康そうな男性が平気で座って、スマホを忙しなく触っている。
それを見て、何か腹が立つだろうか?
「人間って、そんなものじゃないですか?」
それ以外に何があるだろう?

多額の賄賂を受け取っていた者が逮捕されたところで、
「人間って、そんなもんじゃないのかい?」
以外に何が言えるだろう?

ヒトラーの場合はどうだろう?
彼はうまくいき過ぎただけで、やっぱり、人間ってあんなものなのだ。
誰だって自分の考え方を押し付けたいというだけのことなのだ。
木枯し紋次郎のような人は、ヒトラーに騙されることはけっしてない。
誰も騙されなきゃ、ヒトラーもただのいじけた自己主張の強いオッサンであり、悲劇は起こらない。

私は、歩きタバコや、歩きスマホをする人が大嫌いなのであるが、やっぱり、人間ってあんなものなのだ。
つまり、自分さえ気持ちよければ、自分さえ楽しければそれでいいのである。
「人間って、そんなものじゃねえんですか?」
紋次郎の声が聞こえたら、別に腹を立てる気にもならなくなった。

幸福を掴むと思えた一歩手前で全てが駄目になったら?
「世の中って、そういうもんじゃねえんですかい?」
で終わりである。

ブログやツイッターで嫌なコメントがついた?
「世の中って、そんなものじゃないのか?」
「人間って、そんなものだろ?」
以外のなにものでもない。

ずっとニートで、すっかり年を取ってしまったら?
やっぱり、
「人生って、そんなものじゃないのか?」
・・・ではない。
そうではなく、このニートは、魔の公式を使わなかったということだ。
受容性が高ければ、たとえニートであっても人生は楽しいし、金も稼ぎ、情熱的に生きているはずである。
『神様のメモ帳』に登場するニート達は、書かれてこそいないが、皆、魔の公式をうまく使っている。
若い藤島鳴海や篠崎彩夏は、魔の公式を使う練習中といったところだ。
ニートなら、是非、魔の公式をマスターすべきと思う。
ちなみに年齢は関係ない。15でも89でも同じである。

「人間って、そんなものじゃないのか?」
「世の中って、そんなものじゃないのか?」
「人生って、そんなものじゃないのか?」
この魔の公式で、全てを受け入れれば、虎の中の猫であったとしても、あなたは無敵である。









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人間に分かる唯一のことは人間には何も分からないということだけだ

スポーツ、演芸、芸術、武道等には「名コーチ」というものがいて、子供の才能を見抜くなどと信じられている。
しかし、はっきり言っておくが、そんなことのできる者はいない。
たまたま才能のある生徒を指導したら、その生徒が超一流になった等ということが2~3度あると、名コーチにされてしまうのである。
そして、コーチ自身も変な自信を持って、生徒を集めても、才能ある生徒のほぼ全てを潰してしまうのである。
それでも、生徒の数が多いので、たまたま才能がある生徒がいて、しかも、そのコーチと相性が良く、上手く育って活躍すれば、「名コーチ」の評判は維持できる。
そして、名コーチは言うのだ。
「本当に才能ある子は千人に一人、万人に一人だ」
ってね。
実際は、才能なんてもっとありふれている。
たかが人間に分かることなんて知れているのだ。
神を恐れよと言いたい。

あることについて、専門家に見解を聞けば、専門家達は、みんな違うことを言うのである。それぞれが真逆(逆を強調する俗語)であることすら珍しくない。
しかし、まぐれ当たりした者だけがクローズアップされ、「やっぱり専門家は正しい」となってしまうのである。
早い話が、誰も、何も分からないのだ。
ある名医が、自分の誤診率は14%だったと言ったらしいが、その時、医者と医者以外の両方が歓声を上げた。
医者以外の者達は、その誤診率の高さに。
そして、医者達は、その誤診率の低さにである。
だが、普通の医者は、もっとはるかに誤診をするのだ。
私は、その名医の誤診率が14%だなんて、全く信じない。
単純な症例は別として、実際は、ほとんど正しく診断できなかったはずなのだ。
いくらかまぐれ当たりがあるだけである。

だが、ビッグデータが正しく使われるようになりデータが十分に多くなれば、いつも正しい答が得られる。
ただ、その答がなぜ正しいのかは決して分からないのだ。
誤解してはならないのは、ビッグデータとは、コンピューターが推論や計算で正しい答えを出すことではなく、コンピューターが正しい答を見つける方法に過ぎないのである。
確かに真理は存在するが、なぜそれが真理であるのかは誰にも分からないのである。
だが、それによって、人間の知性など、卑小過ぎて何の力もないことを認識し、謙虚になれればそれで良いのである。

そして、人間が完全に謙虚になって、自分の知性を蔑み、ソクラテスのように、
「私は、自分が何も知らないということだけを知っている」
と本当に理解すれば、やはり、ソクラテスのような賢者になる。
それは、人間の知性ではなく、神の叡智と一体化したということである。

『ソクラテスの弁明』は、下記にご紹介した藤田大雪さんのKindle版が安価ながら素晴らしいと思ったし、評判も良いので推薦する。
ビッグデータに関しては、やはり下記にご紹介した、クター・マイヤー=ショーンベルガー、ケネス・クキエの著書の翻訳をお薦めする。









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自分の生き様を知れば迷いは消える

大学に入学する時や、就職する時、「この分野が社会的に有利で収入の高さも期待できる」という理由で学部や業種を選ぶなどという考え方をする者がいるとしたら、私には信じられない。
貧しい国で、人生の選択の自由がほとんどなくて、やむを得ずに何かをしているというのは実は良いことである。
親が医者だったり経営者だったりして、医学部に入って医者になるとか、会社を継ぐというのは、その道が好きでそれをやるのは無論良いことだが、自分の意志と関係なくやむなくという場合も悪くはない。
しかし、それが得だからやるというのは愚かなことだし、ロクなことにはならないだろう。

ロケットを作る科学者になる、医者になる、執事になる、サッカー選手になる、工芸家になる、詐欺師になるといった具体的なことは、なりゆきに任せるしかない。
自分で選べるのは生き様だけである。
しかし、本当のことを言えば、生き様は生まれた時から決まっていて、その宿命的な生き様に従うかどうかだけのことなのである。
言い直せば、生き様を選べるのではなく、生き様に従うかどうかだけを選べるのである。

最近よく取り上げる、時代劇小説の『木枯し紋次郎』であれば、紋次郎の生き様は「無宿」であった。
生まれる前に、無宿者と運命付けられているのである。
無宿者として生きる方法の中で、盗人や山賊よりはマシと思えた渡世人(博徒。やくざ)の道を、紋次郎は選択したのである。
『神様のメモ帳』では、運命付けられていることを、「神様がメモ帳に書いた」と表現する。
この小説の中に沢山のニートが登場するが、ニートとは生き様なのであり、その中で、それぞれが、ギャンブラー、ジゴロ(フランス語。男妾のこと)、ヤクザ、そして、探偵を選んだのである。

あなたはまず、自分の生き様に気付かなくてはならない。
生き様は、生まれる前から決まっている。
一般的には、先天的気質とでもいうものだろう。
生き様は自分で選べない。
自分の生き様と違うことをするのを、「柄に合わない」と言うのである。
義経はリーダーが生き様で、弁慶は支えるのが生き様であるというようなものだ。

生き様さえ間違っていなければ、後はなりゆき任せで良い。
というより、なるようにしかならない。
法然と親鸞の違いは、考え方ではなく、生き様の違いなのである。
2人とも、念仏を称える道を選択したが、生き様が違うので、思想が違うように言われるのである。
法然は学者でリーダーであったが、親鸞は芸術家で教師だった。
ただ、狭い観念の学者や芸術家という意味ではないので注意しなければならない。

あなたの生き様は何だろう?
改革者か、クリエイターか、指導者か、風来坊か、探求者か、治療者か、芸術家か・・・それは無限にある。
『神様のメモ帳』で、「僕はニート探偵だ」ときっぱりと言うアリスは、自分の生き様を知っているのである。
木枯し紋次郎も、無宿渡世人というのは、職業ではなく、彼の生き様であり、彼もはっきり自覚している。
生き様にぶれることなく従っている者は、背中で教えることができる。
だから、子にとって、親の生き様が大切なのであり、生き様を持っていない親は子供を育てられないのである。
放っておいても子供が立派になる親は、自分の生き様に従っているのである。









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
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