ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。
[2011/06/08]迷惑コメントが多くあったため、やむなく、コメントを承認後公開することとしました。

食欲を抑える個人的な方法

秋は食欲が増すと聞きますが、私のように、いつも空腹だと、変わることなく、年中、何でも美味しいと思います。
いずれにせよ、風説(世間に広まっているうわさ)を無闇に信じない方が良いと思います。

今回は、どうしたら食事の量を抑えることができるのかということについてお話しましょう。
私は、食事を1日に1回しかしませんし、1回の食事も満腹するまで食べません。しかし、決して生まれつきの少食ではなく、2年ほど前までは大変な大食でした。
肉は大好きですが、やはり2年以上、全く食べていません。最近は魚も食べなくなりました。
とはいえ、別に根性や意志の強さで食べるのを我慢しているわけではありません。そもそも、私には根性だの、意志の強さといったものは全くないですし、好きでもありません。
それでも、「つい食欲に負けてしまった」といったことも一度もありません。

私は、食事を抑えるということも、人間のあらゆる行動と同じだと思います。
私は、毎晩必ず、腕立て伏せを始め、運動をするようになり、10回しかできなかった腕立て伏せを楽々と150回できるようになりましたが、こういったことも同じ原理で簡単に続けられるわけです。
あくまで私の方法ですが、以下に無料公開します・・・といっても大したものでは全くありません。

何年か前、「幻想楽園」という歌を聞いた時、その中の一節が心に残りました。それは、

憧れだけが明日へ続く
扉を開けることを知っているから

というところで、私は深く同調しました。
この歌は、詩、曲、編曲は梶浦由記さんで、歌は貝田由里子さんです。美しいだけでなく、霊的な、この世のものとも思えない芸術品だと思います。

どんな難しいことも、「憧れ(admiration)」を起こすことが出来れば、まあ、大抵、楽々とやれます。
ただし、本物の憧れでないといけません。ただのenvy(羨望)では何にもならず、desire(欲望)に基くものであれば、悲惨な結果になりかねません。
例えば、モデルの蛯原友里さんに憧れるといった場合は羨望や単なる願望が多いかもしれません。
本当の憧れには、何かを求めるという気持ちは全くありません。つまり、蛯原さんのように綺麗になって人気者になりたいとかモテたいとか思うなら、それはやはり羨望です。

私の場合、食を抑えるということに結びついた憧れでは、以前も書きました通り、映画「さらば友よ」の、アラン・ドロン演じる医者のバランと、チャールズ・ブロンソン演じる詐欺師のプロップが3日間飲まず食わずで様々なことを行うところです。
当ブログ内「餓えた男は美しい」
小説や映画やドラマ、あるいは、アニメで、憧れる少食な登場人物を見つけて感情移入すると、簡単に少食になれると思います。それが増えたり、変化することもあると思います。
究極的には、40日断食のイエス・キリストや、それよりも凄いかもしれないお釈迦様かもしれません。

私の憧れは、今は、アニメ「魔法少女リリカルなのは」の、金髪の魔法少女フェイト・テスタロッサです。トレイに乗ったパンとスープくらいの食事にも全く手を付けないフェイト(本人は心配するアルフに「少しは食べた」と言います)を見ていると、私も食べている場合ではないと思いますし、食べるならパンとスープくらいにしようと思います。
人間、シンプルに出来ていることも大事だと思います(笑)。







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チリ、サンホセ鉱山事故から考える

8月5日にチリのサンホセ鉱山で発生した落盤事故では、私は、鉱山作業員達の生命が絶望視されていた時の彼らの家族の気持ちには同情したし、作業員達の生存が確認された時には、彼らの家族の喜びよりも、閉じ込められた作業員達の不安や彼らが過ごしている環境の過酷さを思うと陰鬱さを感じた。しかし、救出成功のニュースには喜ばしいとは思ったが、その報道があまりに過剰と感じた。

我々が何かに心を動かされるというのは、まるでその当事者の誰かになったような気持ちになることに違いない。それはつまり、他の人の心に同調するということで、以下では、短く、「同調する」と記する。
同調には想像力が必要ではあるが、ごく自然に湧き上がる想像でなければ、真の感動、感激は得られない。つまり、人工的な、作られた想像による同調は不自然な偽物だ。
私は、鉱山事故の発生当時の家族や作業員達には強く同調したが、救出成功の時には一瞬以上に同調することはなかった。誰かに作られた同調はしなかったのだ。

それは、つまり、こういうことだ。
サッカーの試合で味方するチームが勝った時とか、オリンピックで応援する選手が金メダルを獲得した時、私は、選手達との一瞬の同調を感じるが、すぐに離れ、熱烈なファンとはほとんど同調しない。それは、チリの鉱山事故の救出成功の時と同じだ。
そして、本当は、誰もそうなのだ。
「そんな馬鹿な!サッカーで日本が勝利した時、俺はすごく感動するぞ!」と言う人は多いかもしれない。もちろん、その場だけの感動なら問題ない。しかし、なぜしつこく感動しようとするのだろう。まるでそれが義務であるかのように。
それは、何者かにそうさせられているだけなのだ。そうなるように煽動している者がいることは、ちょっと考えれば分からないでもないと思う。
私だって、例えば、浅田真央選手が優勝したら楽しいと思う。しかし、その特集番組が作られ、連日過剰な報道が行われることには、無関心だけでなく、憂鬱を感じる。
もし、そういったものに感激しているなら、本当はいったい何に同調しているのだろう?それは、作られた幻想に同調しているのである。その幻想はもはや、浅田選手から離れたものだ。
なぜ、単に、「浅田さん、良かったね。立派だと思う」ではいけないのだろう?

「タイタニック」という映画で、私は非常に感激した部分がある。
それは、102歳のローズの夢の中の光景だ。17歳のローズが、笑顔のボーイにドアを開けてもらってタイタニック号のホールに入って行くと、一等船室の客も三等船室の客も、タキシードやナイトドレスや作業服のようなものなど様々な服装の男女が完全に混じり合い、皆一緒にローズに温かい笑顔を向ける。そこの階段を上がった踊り場には、タキシード姿のジャックが待ち、2人が抱き合いキスをすると、皆が一緒に祝福する。
そんな世界であって欲しいという思いを現したに違いないキャメロン監督に、私は強く同調したのだ。

「フランダースの犬」は、物語の舞台のベルギーも含め、世界的にはあまり好評でなく、日本での人気の高さがむしろ異例と聞く。それが本当かどうかは知らないが、どこか分かる感じもする。
この物語は、同調するものが多過ぎる。著者は多分、世の中に不条理を強く感じていただろう。そして、登場人物でいえば、アロアの悲しみ、コゼツ(アロアの父)の罪悪感、ネロの祖父の無念、ネロの絵を落選させた者の後悔。ネロに関しては、アロアとの交際を禁じられ、祖父を失い、仕事もなくし、生まれた時から住んでいた小屋も追い出され、絶望しながらも、偶然に拾ったコゼツの財布を届けたことへのせめてもの見返りにパトラッシュの世話を願い、受け入れられると自分は去る。しかし、年老いたパトラッシュは与えられた食べ物に見向きもせず、ネロを探して極寒の街路に飛び出す。
誰も恨むことなく、ただ月光に照らされたルーベンスの絵をレクイエム代わりに死んでいくネロと、そばに寄り添うパトラッシュ。日本人は本来、そんな彼らやアロアに同調できる稀な民族だったかもしれない。

「マッチ売りの少女」となると、今や、日本人は想像が出来ないことから、まともな同調はできないかもしれない。しかし、アンデルセンには、あの少女のモデルがいたのだ。だが、豊かだからといって、少女の状況が想像できない訳ではないと思う。それは感性の問題だろう。

心の騒音を伴う同調は、価値のないものへの、ニセの同調だ。
しかし、静かに、何かを探すように心を見つめるような同調は、きっと、価値のあるものへの同調なのだろう。

ところで、チリの鉱山事故で考えたことがある。
それは、核兵器対策用の地下シェルターというものが滑稽なものだということだ。
核兵器攻撃に備え、地下に鋼鉄と鉛の壁で作った地下シェルターがあちこちに作られているらしい。見たことはないが、多分、本当にあるのだろう。
あなたは、あんなものの中に住みたいだろうか?
放射能が消えるまで、あんなところで暮らせるだろうか?
チリ鉱山事故で、地下の密室に多人数で過ごすことの過酷さが知られたが、シェルターに入る人は、広々とした空間を確保する計画なのだろうか?つまり、自分と家族だけ入るつもりなのだろうか?
地下シェルターに入ったからといって、どうにかなるだろうか?
多くの人が正しく同調することに目覚めれば、仮に善意であっても、地下シェルターを作ろうなんて発想はなくなるのではないだろうか?
それには、人工的な作られた想像による同調、幻想への同調を見極めることが大切だ。
映画「燃えよドラゴン(原題:ENTER THE DRAGON)」で、リーの師匠が良いことを言っていたのを思い出す(最初の5分に価値のある映画だと思う)。
「敵は幻想の裏側に意図を隠すものだ。幻想を壊せば勝てる」







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神秘体験

超常現象という言葉があるが、それが何を意味するかの説明は実に難しい。
サイコロを振り、10回連続で0の目が出るという、非常に珍しいという意味での超常現象(超自然現象。スーパーナチュラル現象)もあれば、人が空中に浮遊するといった、科学的にあり得ないからという超常現象(異常現象。アブノーマル現象)もある。
ところで、珍しいということに関し、統計学では「これは確率的に起こりえない」とされる基準(危険率などと言う)はある。しかし、それを超えたからといって、ただちに超常現象と言えるかは疑問だ。
また、科学的にあり得ないと言っても、科学自体の信憑性の問題もある。実際、科学の常識は案外に変わりやすい。また、起こったとされる現象が、錯覚なのかトリックなのかと疑いだしたら、現実的には決着の付けようはない。

そこで、今回は、「神秘現象」なんて曖昧な言葉を使う。神秘現象の定義は、超常現象の定義より難しいと言うよりは、曖昧な言葉なので定義のしようがない。
例えば、「人を好きになる」ということは、普通と思えば普通だし、神秘現象だと思えば神秘現象だ。
要は、本人が神秘と思うかどうかだけの問題である。
そして、神秘体験(神秘現象の体験を以下、神秘体験と記す)なんて、誰でも、かなりあるはずなのだ。ただ、注意を払わなかったせいで忘れているのだと思う。

世界的な画家の横尾忠則さんは、たびたび宇宙人と逢っているという話を著書に書かれているし、名高い格闘家の前田日明さんは、若手のプロレスラーだった頃、イギリスのホテルで少女の幽霊の声を聞いたことを自伝に書いている。また、横尾忠則さんの対談本では、映画評論家の淀川長治さんも、自分の神秘体験について語っていたと思う。
(これらの本は最後にご紹介する)

他の人の場合も似たようなものかもしれないが、私の場合の神秘体験の特徴は、その時は不思議だとも奇妙だとも思わなかったが、後で考えてみると、非常に不思議だと思われることだ。
私は、小学校4年生の時、大学生だった従兄に、反射式天体望遠鏡を譲ってもらった。
そして、何の手がかりもなく、土星を見ようと思った。夜空に数多く光っている星の中から、適当に選んで望遠鏡を覗くと、それは土星だった。そうやって何度も土星を見たが、発見に苦労した憶えは全くない。まるで私が土星を作ったかのようだった。確かに、土星は明るい星で、見つけるのは難しくはないらしいが、それは、それなりの資料や情報を手がかりにした場合だろう。金星ほど目立つ星でもないし、実際、特に明るい星を選んだ訳でもなかった。
中学2年生の時は、全く同じようにして見つけた木星と土星の観測記録を夏休みの自由研究課題として提出している。それらの惑星の衛星の観測記録を主体としたものだった。

また、私は、猫を集めることができた。2階の私の部屋には、いつも一匹はいたものだ。放浪しているような猫が私のベッドで寝ているのは不衛生かもしれないが、別に気にしなかった。
庭に20匹ほど集めた時は壮観だった。どうやって集めるのかと言うと、ただ、猫が来るといいなと思うだけである。

以前見たテレビドラマの中のある回を思い出し、それをビデオに録画したいと考えるとする。
私は、そんな時は、単に録画リモコンを持ってただ待ったものだ。そうやって、いくつもの希望のドラマの希望の回を録画したが、確率的にはほとんど奇跡と言って全く差し支えないだろう。
ドラマだけでなく、ほとんど再放送などあり得ないような番組も録画したことがある。ほとんど魔法である。

実は、他に、もっと凄いものがいくらでもあるが、このあたりにしておこう。話しても、凄すぎるのか、何の反応も引き出せないものも多いのだ。コロンブスがアメリカ大陸に到着した時、原住民達はコロンブスの船に驚かなかったそうだ。小型ボートしか知らない原住民の人間には、大きなコロンブスの船を船と認識できず、全く見えもしなかったという話もある。案外、我々もUFOに遭遇しても気付かないかもしれない。
最後に、嘘とも本当とも言わないが、こんな話を明かしておく。

休日の午後、誰もいない居間に入ると、ソファに、ブロンドの神秘的なまでに美しい少女が座っていた。年の頃は11歳くらいと思われた。
一瞬、「私は初めて幽霊に出逢ったのだろうか?」と思ったが、恐れは感じなかった。なんといっても、とにかく美しかった。あまりに美しいと、かえって哀れに感じると何かで読んだことがあるが、本当にそうだと思った。
周りの光景はなんだかぼやけて見えるのだが(注意が彼女に集中し過ぎていたのだろうか)、彼女との間にある空気が不思議なほど澄んでいると感じた。それで、彼女の着ている服のひだの1つ1つまで驚くほどくっきりと見えた。
少女は少し目を上げ、少し憂いのあるような表情で、口を動かさずに語りかけてきた。
「あなたは、いつになったら・・・を始めるつもりですか?」
次の瞬間、私は、少女が座っていた近くに座っていた。少女の姿はなかった。
夢のようにも思えたし、実際、人はこういったことを夢と言うのだろう。しかし、夢と現実に違いはないし、言ってみれば、現実以上にリアルだった。







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バラのジレンマ

我々は、コヤシを拒絶する高貴なバラになるべきではない。

この世で生きていくことは、どんな意味においても、「折り合いを付ける」の一言ではないだろうか?
「折り合いを付ける」を、「妥協する」と言うと、何か否定的な感じがするかもしれないが、譲歩というのは、自分が生きていく上にも、そして、皆が仲良くやっていくために絶対に必要なことだ。
「折り合う」とは、元々は「力を配分する」という意味だ。長距離走なのに、最初から飛ばすと、すぐにスタミナ切れを起こす。最初から飛び出したい気持ちを抑えることを折り合いを付けると言うのだ。これは「気持ち優先」「心優先」では、何事も上手くいかないという、貴い真理を表している。
高貴なバラもコヤシと折り合いを付けないと生きていけない。
このことを教えるのが教育であるし、どんな子供もこのことを理解しなければならない。

例えば、我々は、何があろうと、収入の範囲内で生活しなければならない。収入と折り合いが付けられないから、困ったことになるのである。気持ち優先で、分不相応な高価なものを買うのは、長距離走で最初から飛び出す馬鹿と同じである。競馬の馬は、最初から全力を出すので、騎手がそれを抑える。馬鹿な人間も、抑えてやる者を必要とする。
しかし、世間は、収入と折り合いの付かない生活をする欲望で我々を煽り立てている。
購入に300万円必要な車のCMでも、「この車を買うのは、少なくとも年収600万円以上の方だけにして下さい」とは決して言わない。あわよくば、年収300万円以下の人にも売ってやろうと思っているはずだ。
そして、あらゆる製品の販売者がそうなのである。
サラ金から金を借りる人の大半は、必要に迫られてというより、遊びや趣味の買い物のために金を借りるのだそうで、それに驚いていたら、何のことはない、サラ金のテレビCMは昔からそうしろと言っているのである。
つまり、サラ金から金を借りるということは、収入との折り合いを放棄したということであり、確実に破綻に向かっているということなのである。

無能な警察官や検察官は犯罪者と折り合いを付けることが出来ない。
警察官や検察官は、犯罪者と折り合いを付け、仲良く事を運ばないといけない。それを「犯罪者と妥協はせぬ」と言うから、犯罪者も警察や検察との折り合いが付かずに犯罪を永久に繰り返すのである。
真実を言えば、犯罪者あっての警察、検察だ。警察官、検察官の存在意義は犯罪者に依存しているのだ。それが分かってこそ、良い警察官、検察官になれる。
そして、犯罪者あってこその裁判官である。それを自覚できる裁判官が良い裁判をやれるのだ。
裁判員制度、陪審員制度の良いところは、裁く者と犯罪者の距離が近いことだ。裁く者が、犯罪者を自分だと自覚出来れば良い裁判になる。裁判官にはそれができない。
優等生の評価は劣等性の存在に依存している。不良学生あってこその模範学生である。そのことをお互いが理解してこそ、素晴らしい友情が生まれる。優等生同士、不良同士の友情など面白くないではないか。

仮面ライダーはショッカーと戦う前に「お世話になります」と一礼すれば良い。ポパイのホウレンソウより良い教育になるだろう。
武道の試合はもちろんだが、決闘だって礼を交わしてから始めるものである。
「悪に妥協するな」という強硬な姿勢が、戦争を起こし、独裁国歌を作ったのではないのか?
悪の枢軸と言われる国だって、自国をそんな風には決して思ってはおらず、独裁者は自らを救世主と思っているものだ。
愚かな人間は、悪の国に対して過激な対応を主張する。
悪に負けてはいけないが、勝ってもいけないのだ。悪があってこその正義である。
悪を滅ぼそうとしたら、悪の方も正義を滅ぼそうとする。悪から見れば、正義こそ悪である。どちらが正しいかなんて、幻想上でしか決まることではない。
光と闇、表と裏、愛と憎しみ、これらは必ず同時に存在する。
敵と味方は区別が付き難い。根っこは同じだからだ。
悪と折り合いが付けられる者だけが、平和に生きられる。もし、真実の成功法則というものがあるなら、そんなことを教えているはずだ。

尚、折り合いを付けろ、つまり、長距離走で最初から飛び出すなとは言ったが、走らなければ勝てない。
私は何も、警察は犯罪者をもてなせと言っているのではないが、折り合いを付けられない愚かな人間は、そんな極端論に走るものだ。折り合いを付けるとは、極端論を避けるということでもある。
それを徳川家康は「過ぎたるはなお及ばざるがごとし」と言い、「何事もほどほどに」と言ったのではないかと思う。
私は「バランス感覚」なんてきれいな言葉は好きではない。それは、コヤシを隠そうとするごまかしがある。子供のしつけには時には罰も必要だし、警察官は犯罪者を締め上げる必要もあるのだ。
優雅な水鳥のほとんどは雑食性で、お菓子なんか持ってたら襲われることもあるし、ゴミ箱をひっくり返すなんて当たり前。それを認めてこそ、カモメの本当の美しさが分かる。
「私の全てを愛して」「彼女の全てを愛す」なんて、実はシビア(過酷)なことである。折り合いの付けられる人間だけが愛することができる。
結婚なんて、折り合い以外の何物でもない。離婚なんて、自分で折り合いが付けられない、騎手が必要な馬でしかないというだけのことだ。馬は結婚しないんだ。結婚活動以前にやるべきことがある。コヤシと折り合いの付けられるバラになることだ。





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スポーツはメールより気楽であるべき

昨日の体育の日とは、東京オリンピック(1964年)の開会式の日を記念したものらしい。
体育の日は、元々は10月10日であったが、2000年からは10月の第2月曜となったらしい。実は私は今まで気が付いていなかった。

ところで、会社の社員旅行というものは、昔、普通の人が個人ではなかなか旅行出来なかった時代に始まったものだと聞いたことがある。それと同様、体育の日に行うような体育祭等の体育イベントは、個人がスポーツの習慣や知識を持たなかった時代には有益だったかもしれないが、今ではむしろ健康の趣旨に反するかもしれない。スポーツは特別な日にやるものではなく、普通にやるものであるのに、体育イベントでもなければスポーツをやらないというのは何かおかしいのである。
それは、普通の人には、スポーツとは、特別な場所や施設や道具を使ってやるものだというおかしな思い込みがあるからだと思う。
私の提唱する「One-Mat(畳1枚) アスリート」は、畳1枚の広さで出来、お金も全くかからない。
スポーツとは、テレビを見たり、電子メールを使うこと以上に気楽なものだと考えているのだ。だから、毎日簡単にやれるし、それでこそ効果を上げることができる。
指導者なんてものものしいものも不要だ。必要なら教えあえば良いことは電子メールや、算数や国語と同じだ。
本当は身体がボロボロのスポーツ選手の真似をしたり教わったりする必要はない。競技スポーツは、健康のためのものではなく、ビジネスなのだ。
一方、「One-Matアスリート」は、身体の健康はもちろん、心の健康をも視野に入れた、真に有益なスポーツを行うことを目指すものだ。

器具も全く必要がない。ただ、重力があれば良い。
One-Matアスリートのトレーニングは自重(自分の身体の重さ)のみを利用するものだからだ。
この世で重力ほど大切なものはない。
「老子」を読むと、根っこの偉大さが繰り返し説かれている。草花はどんなに茂っても、結局は根っこに帰ってくる。
根っこは、植物の中で最も重力に近い。
しかし、それでも、草花は、重力に逆らって上に伸びる。
つまり、重力は最も強力で大切なものであるが、その反対側に進もうとする意志やエネルギーもあるのだ。
そういうのを「萌え」と言う。
それは若さの力でもある。それは、柔らかく、たおやかで、蒼い。上に伸びるのは成長する若い芽や枝だからだ。それは、無限の可能性を持っている。
そして、いったん上に伸びてこそ、根っこは優しく迎える。イエスも教えたように、家を離れた放蕩息子を、大金持ちの父親が温かく迎え入れたようにである。

天使は空を飛ぶものだ。そして、天使は翼で飛ぶ訳ではない。
英国の作家チェスタトンが、
“Angels can fly because they take themselves lightly”(天使は自分が軽いと思っているから飛べるのだ)
と言ったように、天使は、特別な意味で自分を軽いと思っているから飛べるのだ。
重力からの解放を自由と言うのだ。それは、誰もが憧れていることだ。
One-Matアスリートは重力をも超え、自由を目指す。

One-Matアスリートは、まずは自重運動で筋肉を適度に鍛える。
腕立て伏せやスクワットなどだ。道具を使わず、能力に応じて誰でも実施でき、数字による記録で進歩を知ることはもちろん、微妙な身体の調子を感じることで、肉体の精妙さに気付き、さらに、心を探求し、それを支配するに至る。無理をせず、簡単過ぎずのバランスを取りながら、1年365日、毎日続ける。
普通の腕立て伏せが難しければ膝をついてやることもできる。
スクワットも、深く曲げる方法もあれば、ハーフスクワットと言って、適度に曲げる方法もある。脚が弱ければ、何かにつかまってやるのも良い。
全て自分で簡単に工夫できるはずだ。

自分の身体の重さのみ利用する自重運動を毎日続けると、気が付かないかもしれないが、だんだん重力の支配を感じなくなっている。
最初は10回、20回でも苦しかった腕立て伏せが100回、200回とやれるようになる。
ある武道家は、90歳で150回の腕立て伏せを軽々とやる人のことを知り、自分も50歳を過ぎて70回しか出来なくなっていたが2年かけて200回できるようになったと言う。この話は、下にご紹介した『武道の力』にある。
私も10回から始め、今は毎日150回をこなしている。その気になれば少なくとも200回以上は出来るはずだ。
食を慎めば、霊的な力も発動し、より簡単になる。それは、重力の支配を逃れ、より天使に近付くことである。

例えてみれば、One-Matアスリートは座禅に似ている。
動く座禅、つまり、動禅だ。ヨガや仙道もそのようなものかもしれない。
それを、現代的に、誰でも手軽に実践出来るようにしたものである。
さらに、潜在意識を含めた心の支配に関する知識を加えれば、万能の鍛錬となると思う。
食を慎めば、それらは容易に実現できるだろう。究極の目標は、宇宙との一体化と思うが、まあ、最初は、タダで手軽に出来る運動やダイエットと思っても良い。

尚、腕立て伏せもスクワットもおっくうだという場合は、スワイソウという、立って両腕を前後に振るだけの運動でも良い。姿勢良く立ち、腕を後ろに振る時にはやや鋭く、前に振る時はなるべく力を抜いて自然にまかせる。
意識は、丹田に置くのが正しいと聞くが、単純に下腹部に置けば良いと思う。
これを、最初は200回程度から始め、出来れば1000回以上行う。体力的には老人でも難しくないと思う。これを毎日2000回やって、末期癌を治したという著名な工学博士もいたようだ。
体力的には楽だが、やってみると退屈かもしれない。それで、やっているうちに、雑念がとめどなく起こり、何回やったか分からなくなる。落ち着いて黙々とやることで、座禅や静坐のような効果も出ると思う。
私は、腕立て伏せの準備運動のような意味でもこれを行っている。寝起きでも、これを500回もやれば、全身に気が巡り、細胞が活性化し、頭もすっきりする。
スワイソウに関しては、下に『体を整える「気」のすべて』、『気功革命』の2冊をご紹介しておく。







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