私は、少し前までは、悟りを開けば完全に幸福になれるのだし、人間の究極の目的は魂の解脱、つまり、悟りなのだから、全てを諦めて、永遠の道(タオ)と一致すべしと考えていた。
そして、それはそれで正しいのだと今も思う。
それを好ましいと思うなら、もちろん、そうすれば良い。
聖者ラマナ・マハルシは、生涯、ふんどし一枚以外何も持たなかった。
それで完全に幸福だったが、あなたはそれで良いだろうか?
クリシュナムルティも世俗の報奨みたいなものの一切を見下し、実際に至福の境地にいたのだと思うが、よぼよぼの老人になってしまった。
そして、2人とも癌で死んだ。
別に、彼らはそれを嘆いてはおらず、確かに偉大な人達ではあった。
ところで、聖者ラヒリ・マハサヤの修行時代、彼がかなりのレベルに達したところで、師のババジは、その超越力により、マハサヤの願望である、壮麗豪華な大邸宅を与え、マハサヤは満足することですみやかに解脱した。
仙道の高藤 聡一郎さんは、やはり修行が進んだ時、現世と彼岸を隔てる境界が浮かび、「ここを超えれば解脱するが、それでお前は一切の欲望を無くし、親兄弟を見ても誰か分からなくなる」といった声を聞き、「嫌だ、俺はまだまだ美味しいものも食べたいし、いい女にもモテたい」と辞退したのだということを著書に書かれていた。
これらのことから、ある結論に至るのだ。
確かに、欲望に執着すれば悲惨への道を駆け下りることは間違いないが、人間は、一度は心を満足させないと、最終的な解脱に至るのは難しいものなのだ。
余程、修行の出来た者であれば別なのかもしれないが、我々凡人はラマナ・マハルシにはなれないし、あのラヒリ・マハサヤすら、我々と同じであったのだと分かるのだ。
私などは、少なくとも社会に出てからはずっと良い思いをしているが、周囲を見ただけでも、辛いことばかりの人もいるし、それどころか、ほとんどの人が、不満や悩みで傷付き、その痛みに喘いでいるようにしか見えない。
そんな彼らが、解脱への道を無事に進むことは、非常に難しいに違いないし、その気にもなれないだろう。
まずは、この世の楽しみを味わうことが必要である。
もしかしたら、聖人に近いほど少しのことで満足するのかもしれないが、普通の人では、そこそこに願望を叶える必要もあるのだろう。
そのためには、自己暗示による潜在意識との共同作業以外の方法はない。
そして、幸い、それは容易いはずなのである。
潜在意識による成功法則や引き寄せの法則は、疑うことなど1パーセントもないほど確実であり、当たり前に使えば良いのだが、それを奇妙に複雑にしてしまっている者がいるのだろう。
ただ、「成った」と思えばそれで良いのであり、他に何もない。
人間には、神と同じ創造の力があるのであり、「成った」の想い以外に、取り立てて必要なものはないのだ。
法然は、「南無阿弥陀仏」の念仏を1日に何千回、何万回と称えることを勧めたが、親鸞は、感謝して1回称えれば良いと言った。
感謝して1回称えるとは、「成った。ありがとうございます」という意味である。
即ち、念仏とは、「極楽は眼前に出現せり。無限者よありがとうございます」という感謝の表明なのだ。
早い話が、イエスが言った、「神に願う時は、既に叶ったと思え。そうすれば叶う」である。
宗教的でも、スピリチュアルでも何でもない。
自然で、庭のコスモスのように確かなものだ。
面白いことに、あの、「毎日、あらゆる面で、私はますます良くなっていく」という自己暗示を教えたエミール・クーエだって、自分では、例えば病気の人に対し、「治る、治る、治る、・・・、治った」といった暗示を教えていたのだ。
この最後の「治った」が重要で、その前の「治る」の反復は、精神を集中するための心の準備運動である。
私はやったことがないが、美人になりたいなら、「美人に、なる、なる、なる、・・・・、なった」とやるのも、なるほど、確かに良さそうである。
だが、普通は、「私は美人だ」でよろしい。
いつも言うが、心の反発など気にしなくて良い。
反発があるからこそ、それは望ましいことなのであり、反発があるということは、価値があるということのサインとすら言える。
そして、起床時と就寝時に、声を出して20回も自己暗示をすれば、やがて心も従うのである。
実際、我々は、親、学校の教義や信念、マスコミの放言、大企業のCMといった、下らないものを、何の反発もなく受け入れている。
それらにしたって、忘れてしまったかもしれないが、初めは反発を感じたものだって沢山あるのだ。
そして、我々には、肛門を締めるという秘法があるのであり、思い出すたびに肛門を締めるようにすれば、いかなる願いも必ず、短期間に叶うのである。
普通にやれば、これまでの多くの人同様、欲望に執着してしまい、「引き寄せの法則は嘘だ」なんて愚かしいことを言う羽目になるが、我々は、肛門を締めることや、肛門を締めながらの腕振り運動すら知っているのだから、失敗する方がおかしい。
後は、やるか、嘲笑ってやらないかの違いだけである。
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そして、それはそれで正しいのだと今も思う。
それを好ましいと思うなら、もちろん、そうすれば良い。
聖者ラマナ・マハルシは、生涯、ふんどし一枚以外何も持たなかった。
それで完全に幸福だったが、あなたはそれで良いだろうか?
クリシュナムルティも世俗の報奨みたいなものの一切を見下し、実際に至福の境地にいたのだと思うが、よぼよぼの老人になってしまった。
そして、2人とも癌で死んだ。
別に、彼らはそれを嘆いてはおらず、確かに偉大な人達ではあった。
ところで、聖者ラヒリ・マハサヤの修行時代、彼がかなりのレベルに達したところで、師のババジは、その超越力により、マハサヤの願望である、壮麗豪華な大邸宅を与え、マハサヤは満足することですみやかに解脱した。
仙道の高藤 聡一郎さんは、やはり修行が進んだ時、現世と彼岸を隔てる境界が浮かび、「ここを超えれば解脱するが、それでお前は一切の欲望を無くし、親兄弟を見ても誰か分からなくなる」といった声を聞き、「嫌だ、俺はまだまだ美味しいものも食べたいし、いい女にもモテたい」と辞退したのだということを著書に書かれていた。
これらのことから、ある結論に至るのだ。
確かに、欲望に執着すれば悲惨への道を駆け下りることは間違いないが、人間は、一度は心を満足させないと、最終的な解脱に至るのは難しいものなのだ。
余程、修行の出来た者であれば別なのかもしれないが、我々凡人はラマナ・マハルシにはなれないし、あのラヒリ・マハサヤすら、我々と同じであったのだと分かるのだ。
私などは、少なくとも社会に出てからはずっと良い思いをしているが、周囲を見ただけでも、辛いことばかりの人もいるし、それどころか、ほとんどの人が、不満や悩みで傷付き、その痛みに喘いでいるようにしか見えない。
そんな彼らが、解脱への道を無事に進むことは、非常に難しいに違いないし、その気にもなれないだろう。
まずは、この世の楽しみを味わうことが必要である。
もしかしたら、聖人に近いほど少しのことで満足するのかもしれないが、普通の人では、そこそこに願望を叶える必要もあるのだろう。
そのためには、自己暗示による潜在意識との共同作業以外の方法はない。
そして、幸い、それは容易いはずなのである。
潜在意識による成功法則や引き寄せの法則は、疑うことなど1パーセントもないほど確実であり、当たり前に使えば良いのだが、それを奇妙に複雑にしてしまっている者がいるのだろう。
ただ、「成った」と思えばそれで良いのであり、他に何もない。
人間には、神と同じ創造の力があるのであり、「成った」の想い以外に、取り立てて必要なものはないのだ。
法然は、「南無阿弥陀仏」の念仏を1日に何千回、何万回と称えることを勧めたが、親鸞は、感謝して1回称えれば良いと言った。
感謝して1回称えるとは、「成った。ありがとうございます」という意味である。
即ち、念仏とは、「極楽は眼前に出現せり。無限者よありがとうございます」という感謝の表明なのだ。
早い話が、イエスが言った、「神に願う時は、既に叶ったと思え。そうすれば叶う」である。
宗教的でも、スピリチュアルでも何でもない。
自然で、庭のコスモスのように確かなものだ。
面白いことに、あの、「毎日、あらゆる面で、私はますます良くなっていく」という自己暗示を教えたエミール・クーエだって、自分では、例えば病気の人に対し、「治る、治る、治る、・・・、治った」といった暗示を教えていたのだ。
この最後の「治った」が重要で、その前の「治る」の反復は、精神を集中するための心の準備運動である。
私はやったことがないが、美人になりたいなら、「美人に、なる、なる、なる、・・・・、なった」とやるのも、なるほど、確かに良さそうである。
だが、普通は、「私は美人だ」でよろしい。
いつも言うが、心の反発など気にしなくて良い。
反発があるからこそ、それは望ましいことなのであり、反発があるということは、価値があるということのサインとすら言える。
そして、起床時と就寝時に、声を出して20回も自己暗示をすれば、やがて心も従うのである。
実際、我々は、親、学校の教義や信念、マスコミの放言、大企業のCMといった、下らないものを、何の反発もなく受け入れている。
それらにしたって、忘れてしまったかもしれないが、初めは反発を感じたものだって沢山あるのだ。
そして、我々には、肛門を締めるという秘法があるのであり、思い出すたびに肛門を締めるようにすれば、いかなる願いも必ず、短期間に叶うのである。
普通にやれば、これまでの多くの人同様、欲望に執着してしまい、「引き寄せの法則は嘘だ」なんて愚かしいことを言う羽目になるが、我々は、肛門を締めることや、肛門を締めながらの腕振り運動すら知っているのだから、失敗する方がおかしい。
後は、やるか、嘲笑ってやらないかの違いだけである。
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