ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

持てば、ただちに無敵となる掟

自分の欠点を認識している者は幸いだ。
ものすごく傲慢だったり、後ろ向きな性質なのに、それを自覚していない者は多い。
あるいは、周囲の人達はその者の欠点だと思っていることを、本人は美点だと思っていることすらある。
確かに、人々に非難され、蔑まれる人が、本当は優れた素晴らしい人であることもある。
しかし、周りの連中は馬鹿だから分からないだけで、俺はこいつらよりずっと上なのだと思っている者がいたら、その心根はどうしようもない欠陥である。

木枯し紋次郎は、堅気の人間(ちゃんと働いて生計を立てている人間)に嫌悪され、白眼視され、侮辱されるのを当然と受け止めていた。
その理由は、自分はまともに生きている人間ではないからだ。
紋次郎は、無宿渡世人で、田畑を耕すのでも、物を作ったり売ったりしているのでもない。
紋次郎は、人別帳(戸籍)に名がなく、1つところに留まることが許されないので、盗賊の類になるのでなければ、渡世人として生きるしかない。
それは自分のせいでないにしても、紋次郎は、自分は人々の下に位置付けられていることを、当然のこととして受け入れている。

ところで、紋次郎には欠点というものがない。
いてもいなくても良い、何の価値もない人間だと自分で思ってはいるが、自分の欠点を思い煩うこともない。
ただ、紋次郎は、たまに、自分はまだ甘いと、自分を戒めることはある。
それだけだ。
疲れている時、平和な村の人々を見ると、自分がそこに定住し、家族を持つようなことを呆然と考えることが、ごく稀にだが紋次郎にもある。
紋次郎が、自分を甘いと思うのは、そんな時である。
そんな時、紋次郎は、まともな人間でない自分には、人並の幸福や安らぎは許されないことを自分に厳しく突きつける。
そんな紋次郎にとっての安らぎは、死だけであり、死がゴールなのである。

紋次郎の認識はもちろん、歪んでいたりもするのだろう。
それは彼の境遇では仕方がないということもあるが、それでも、紋次郎に欠点はない。
それはなぜかというと、紋次郎は言い訳をしないからである。
「あっしには、何の言い訳もござんせん」
この掟のようなものが、彼を崇高にし、滅茶苦茶な運命の中でも、彼に力を与えている。

それが結論である。
つまり、言い訳をしなければ、一切の欠点は消える。
言い訳をしなければ、神々も天使も、そして、鬼も味方する。
言い訳の代わりに、「南無阿弥陀仏」と唱える者は、神々すら敬う。
言い訳をしなければ無敵である。
言い換えれば、あなたは何をしても良いが、言い訳だけは許されないのである。
釈迦もキリストも老子も、全ての本物の聖者の教えの根本は「言い訳をするな」である。
これだけ知っていれば他は忘れても構わない。
全ての教えは、言い訳をしないためのものである。
最初から、
「あっしには何の言い訳もござんせん」
と言う紋次郎が、あらゆる危機を乗り越え、常に勝利し、自分より数段腕の立つ者と決闘しても決して敗れないことは、自然なことである。
紋次郎に倣えば、我々も、本日ただいまより無敵である。
「言い訳をしない」
この掟を持つ者が、宇宙の中で選ばれた真に特別な存在である。









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この世界を構築するエネルギーを味方にする法

この世界は、関係性でできている。
それはこういうことだ。
あなたは自転車を再発明できるだろうか?
無理だ。
タイヤ1つどころか、タイヤのゴムだって、それができるまでには、長い長いプロセスがあったのであり、我々が簡単にゼロから作れたりしない。
そして、ゴムは自転車のタイヤを作るために発明されたのではなく、タイヤになったのは、単なる偶然だ。
全てのものは、そんな偶然が重なってできている。
つまり、あらゆる点と点がつながって、全てのものができているのだ。

それは、初音ミクの『Tell Your World』にあるように、いくつもの点が線になり、その線が円になったのが、この世界なのだ。
ズティーブ・ジョブズは、点と点がつながることを信じないといけないと言ったが、信じる信じないもなく、すでに、点と点は線になり、線と線は円になっているのだ。
それをよしとしなければならない。
我々は、そして、我々の世界は、あらゆるものが関係しあって出来たベストな世界だ。
それを認め、受け入れれば、関係性を作り上げるエネルギーが味方してくれる。

ジョージ・ソロスは、そのエネルギーを味方にして、投資で莫大な富を築いた。
株なんてまさに関係性だ。
ある銘柄の株が上がると予測すれば、それを買う人が増えて、確かに一時は上がる。
しかし、すぐに売りも出てくるようになり、やがて株価は下がり、予測は外れるのだ。
つまり、予測というプロセスが、株式市場に影響を与えてしまうのだ。
ソロスはそのことに敏感に気付き、株式市場は再帰的だと言ったのだ。
難しかったかもしれないが、気にしなくて良い。
あなたも同じことができるからだ。
起こることを、起こるままに許す柔らかさがあれば、エネルギーが味方をする。
そのエネルギーは全てを構築する力だ。
何にも執着しなければ、それで良いのである。
荘子が言ったように、一切の思慮分別を離れ、是非好悪の判断をせず、全てをあるがままにまかせるのだ。
私は、ミクの『Tell Your World』を聴きながら、そんなことをしているので、いつも良い想いしかしないのである。
あらゆることが奇跡のタイミングで起こり、全てが私を驚かせ、喜ばせる。
肛門を締め、空を見上げれば、執着が消え、心は広くなる。
そして、一切をなりゆきにまかせることだ。
それは、『荘子』を読むことでも、よく学べると思う。









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それでも運が良くならない人に

毎日のように書いているが、常に肛門を締め、なるべく野外に出て空を見上げれば、それでかなり運がよくなるはずで、待つまでもなく、良いことばかりのはずだ。
もし、そうでないなら、こだわり(執着)が大きいのだろう。
自分では、仕事にこだわっているとか、修行にこだわっているといった、肯定的なつもりであっても、こだわり=執着だ。
仕事も修行も熱心にやるものではあっても、こだわっては(執着しては)ならない。
しかし、こんなこと、言葉で言っても駄目か・・・。
自分では認めたくなくても、強欲な人というのは、どうしてもこだわり(執着)があるのだ。
好きな女の子は、諦めれば自動的に得られるのに、そうならないというのは、諦めたふりしかできず、実際は執着しているのだ。
本来は、ここで宗教の出番なのだが、今の宗教は、こだわり(執着)をさらに強くする。
「布施をしなさい」
と言うのは正しいのだが、教団が言うような多額の寄付をすれば、ますますこだわりが強くなる。
そんなことは、少し考えれば分かりそうなものである。
真面目に働いて溜めた貯金を切り崩して寄付すれば、こだわりが強くなり、運は悪くなる。
不正な手段で得た金であれば、寄付以前に返金しなければならないが、働いて得た金は自分のものであり、正しく使うことが世の中のためになる。
寄付の額は、手取り収入の1~5パーセントが適切で、手取り30万円なら3千円から1万5千円である。
ただ、1万5千円で喪失感があれば、3千円で良い。

大富豪であれば、世の中に貢献したことは確かだが、同時にライバルを蹴落としたり、不幸な人も沢山作ったはずなのだ。
それで、ビル・ゲイツが言うように、「金持ちは財産の半分を寄付しろ」というのは正しいのだが、普通の人はそんな必要はない。

給料が入れば、その百分の1か、せいぜいその5倍までを寄付すれば良い。
30万円の手取りがあれば、3千円寄付しても負担は全く感じないはずだ。
普通は、これだけで執着は消えるだろう。

だが、ひょっとしたら業の深い者もいるかもしれない。
生きてきた中で、深い執着、化け物のような欲望が染み付いてしまった人だ。
それで、毎朝、決めた時刻に、決めた回数(あるいは時間)念仏を称えたり、やはり、決めた時刻、決めた時間、聖書を読むと執着が消える。
ただ、ここでも、念仏を1時間とか数千回とか、1時間聖書を読むといった、負担になることを必死に続けようとすると、かえって執着が強くなる。
ただし、気紛れに、ちゃらんぽらんにやるのも当然良くはなく、決まった時刻に、負担にならないだけ、1年365日、1日も欠かさずやることだ。
これはこだわりではなく、熱心にやるということだ。
こだわりと熱心の違いが分からないことが日本人を不幸にしてしまったのだ。
本当は、一番良いのは、毎朝、公園の掃除をするとか、近所の一人暮らしのご老人の必要な世話をしてあげるとか、孤独な人の話し相手になってあげるとかを、ごく自然にやることだ。
しかし、こだわりの強い人は、どうもそういうことが恥ずかしくてできないものらしいのだ。
それで、念仏を称えたり、聖書を読んだり、あるいは、大祓詞のような祝詞を上げたりするのだが、執着の強い人、自己にこだわりのある人、強欲な人は、ものすごい量をこなして自己満足してしまい、さらにこだわりを強めるのだ。
私もそんなタイプで、以前、大祓詞を、平日で1~2時間、休日は6~7時間も上げていたものだ。
ところが、高名な神道家が、そんなことをベストセラーの著書で強く勧めたりするのだから恐ろしい。
そんな本の著者の顔写真なんか見ると、いかにも執着が強そうな、強欲そうな、気味の悪い顔をしていないだろうか?
だが、私も、以前はそんな人達を立派な偉い人と思っていたのだ。

こだわりの強い人は、目が合うだけで分かる。
こだわりの強い人は、自分にしか関心がないので、自分は見られていると思っているからだ。
それで、「お前は俺を見ているな」と言いたそうな、異様な目でこっちを見る。
誰もあなたなどに関心はないのだ。
どれほどあなたが変な服装をしていようが、髪が乱れていようが、そんなこと、誰も気にしていないのだ。
「みんな俺のことを疫病神だと思っている」
と言う人がいたが、そこまで他人に関心を持たれるなら、あんた、大したもんだけど、本当は、誰もあんたのことなんて、ちーとも考えていないのだ。
アンタに関心があるのは、せいぜいがアンタの親か、邪まな関心を持った危ない人だけだ。

現代は、中学生や高校生の時から、自分にしか関心がない。
つまり、執着がひどい。
小さい頃から、お稽古事や塾に行かされていることが大きな原因だろう。
親の子供に対する異様な執着のために、子供は自分が注目されるべき存在だと勘違いしているのだ。
逆に、あまりに放置されているせいで、自分に関心を向けてくれることを渇望するあまりに、執着を持ってしまっている子供もいる。
これらのことは、大人になっても消えないので、現代の多くの大人は、自分に対するこだわりが異常に強く、他人に対してはひどく無関心だ。
だから、現代人には、行というものも必要だ。
1年365日、毎日必ず決まった時刻に決まった時間、念仏を称えたり(無論、「南無妙法蓮華経」でも良い)、聖書を読んだりすると良い。
他のことでも良い。
とにかく、熱心にやることだ。
無理のないように、こだわりにならない程度にね。
もちろん、いつも肛門を締めたり、空を見上げることはやって欲しいものだと思う。
いろいろ述べたが、必要なことは1日数分でできる。
それで、あなたも今日から幸運になるだろう。









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わが辞書に「こだわり」「執着」の文字はない

料理人が味にこだわるとか、職人が出来栄えにこだわる、また、野球のバッターが独自の打法にこだわると言うのは、言葉の使い方の大きな間違いだ。
それは、「熱心にやっている」と言わなければならない。
私がこう言ったなら、
「いや、俺は技にこだわり、この道の頂上を目指す。お前のような三流には分かるまい」
と言うなら、それで良い。
「こだわる」なんて言う者は傲慢なのだ。
人間が自分の意志や思いで道を究めたりなど決してできない。
ただ熱心にやることができるだけで、結果となると、なるようにしかならないのだ。
こだわるというのは、自分の力で成果を決めることができるという、とんでもない自惚れから出ているものだ。
楽器でも、究極の演奏を極めようとして練習し過ぎると、不思議な病にとり付かれて腕が動かなくなったりすることがある。
そうでなくても、そんな欲望が強過ぎると、手ひどい問題が起きるものだ。
絶対に成功してやると思って働き過ぎると、家族が離れていったり、自分や家族や恋人が病気になったり、精神的におかしくなったりするのだ。

熱心にやることは良いことだ。
しかし、結果に関しては、神にまかせるのだ。
それで、願ったようにはならないかもしれないが、ずっと後になれば、それで良かったことが分かるのである。
望んだような結果でなかったからこそ、その後で取り組んだことが、いつか、最も望ましいことにつながるのだ。
それが、点と点がつながるということだ。
あらかじめ、自分で点をつなぐことはできない。
だが、点がつながると信じることだ。
それがあなたを導くのである。
おっと・・・スティーブ・ジョブズの「伝説のスピーチ」と同じになってしまった。
だが、私としては、

君に伝えたいことが
君に届けたいことが
たくさんの点は線になって
遠く彼方へと響く
~『Tell Your World』(作詞・作曲・編曲:kz、歌:初音ミク)より~

というつもりもあるのだ。
ジョブズのスピーチを読むと同時に、できたらこの歌を聴くように。
それがあなたを幸運に導くだろう。
そして、わが辞書に「こだわり」「執着」の文字はないのである。









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瞑想術マスター阿久悠

願いを叶える方法が書かれた本として特別なものに、『強くなる瞑想法』(青春出版社)という本がある。
おかしなことに、この本で最も、そして、申し訳ないが唯一良いのは、カバーの折り返し部分に書かれている、大作詞家だった阿久悠さんの瞑想法である(もちろん、参考になる本だが、本文に書かれたことは、ややこしくてできないと思うし、誤解しやすい部分もあると思う)。
「息を十分に吸って数秒止める。その間に瞑想をする。息を吐いたら全て忘れる」
この瞑想とは、目を閉じてじっとしていることだと思うが、その間に、作詞した曲がヒットする光景をありありと思い浮かべるのだ。
阿久さんの場合は、曲がヒットした光景だが、他の人では、それぞれの願望が叶った様子ということになろう。
全く見事な、欠点のないやり方である。
あくまで、曲が「ヒットした」様子を思い描く、つまり、願望が叶ったところを思い浮かべなければならない。
既にそうなっている・・・イエスの言う「既に叶ったと思え」、政木和三さんの言う「過去完了形で想え」ということである。
そして、瞑想が終わったら、「全てを忘れる」ことが大切だ。

私は以前、ある強い願いがあり、阿久さんのやり方をやったところ、良いところまでいくが最後までは叶わなかった。
私の失敗は2つである。
1つは、この瞑想を何度もしつこくやったことだ。
阿久さんは、回数まで書いていなかったが、何度も続けてやるということは、願望成就を信じていないということになるのだ。
やるとしたら、目覚めた時、就寝する時、そして、日中、静かな場所を見つけて(トイレの中とかでも良いだろう)1回やれば十分だ。
いや、これでも多いかもしれない。
そして、もう1つの失敗は、「息を吐いたら全て忘れる」ことができなかったのだ。
阿久さんが瞑想術の達人であるのは、この「全てを忘れる」ことを忘れなかったことだ。
瞑想が終わったら、すぐに何か始めて、瞑想中に思い描いたことを、きれいさっぱり忘れないといけない。
瞑想どころか、願いを忘れただけでも叶うのである。
何度もしつこく書いて申し訳ないが、映画監督のマイケル・ムーアが言った通り、「好きな女の子のことは諦めろ。そうすればその子は君のもの」なのだ。
諦めたふりではない。
本当に諦めるのだ。
もちろん、女の子のことだけでなく、何でも諦めたら叶うのだ。
政木和三さんも、諦めた上で、願いが叶ったことを過去完了形で「これこれが叶いました。ありがとうございます」と感謝しろと述べたものだった。
例えば、赤ん坊が大怪我をして医者に見離されたという人に対し、政木さんは、「もう助からない。すっぱり諦めろ。そして、『赤ちゃんが助かりました。ありがとうございました』と言え」と教えたのだ。
それで、その赤ん坊は奇跡の回復をし、健やかに成長した。
だが、普通は、誰がやっても、「諦めたふり」で終わってしまう。
欲望を手放すのは本当に難しい。
私は昨夜、私が聞いた、宇宙人の、「想いを宇宙に向かってぽーんと投げなさい」という言葉をご紹介したが、こんな雰囲気で、願いを投げて忘れることが大切なのだ。

執着を捨てる練習も必要かもしれない。
人間は誰でも、何か執着しているものがある。
あなたにも、1つや2つあるはずだ。
それを見つけて、その執着を捨ててしまうのだ。
例えば、熱烈な巨人ファンで、どうしても巨人に優勝して欲しいと思っているなら、「別に巨人が優勝しなくていい」と思えるようになることだ。
五木ひろしが最高の歌手だと信じて疑っていないなら、それは、自分がそう思っているだけだと認めることだ。
もちろん、それは、あらゆる信念に対してそうである。
自分はマルクス主義が一番だと思っていても、あくまで個人的な信念だと了解することだ。
(こんな馬鹿げた注意はしたくないが、暴力がいけないというのは、信念ではなく、自然のルールである)
私は先月、初音ミクが歌うコンサートに行ったが、もし、そのコンサートのチケットが取れなかったり、行けない状況になっていたら、非常に落胆したかもしれないが、それでは駄目なのである。
行けたら嬉しいことは確かだが、駄目だったら、こだわらず忘れるようでないといけない。
来月(10月)は、ミクのロサンゼルスとニューヨークのコンサートがあり、それなら私も、会社なんかに行っている場合ではなく、是非行きたいと思うが、気付いた時には手遅れだった。
残念には思ったが、もう落胆しないようになっていた。
これがいつまでもクヨクヨするようだと、願いを叶えるだけの力がまだ無いということである。









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
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