ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。
[2011/06/08]迷惑コメントが多くあったため、やむなく、コメントを承認後公開することとしました。

辞書を愛読した天才精神科医

私もそうなのだが、ネットを辞書として使い、紙の辞書を使うことが全くなくなったという人も多いと思う。調べるということの機能の優秀さは、ネットの持つ最大の美点の1つだろう。
ネット辞書の場合、調べようとした言葉を楽に速く検索できるだけでなく、類語や反意語にリンクが付いていて、何の労もなく、それらのページに移動できるという便利さもある。辞書ではなく、検索エンジで調べれば、幅広い情報を得られる。
だが、紙の辞書にしかない利点もある。
これは、はっきりと利点と思っていない人も多いかもしれないが、私が非常に良いと思っていることに、紙の辞書の場合、何かの言葉を調べる際、調べようと意図したものとは異なる言葉を必ず見るのだが、案外にそれらの言葉や、その説明を読んで覚えている場合があるということである。知らなかった言葉というものは、目にしたら、「これはどんな意味なんだろう?」という意識が働くものではないだろうか?それで、たまたま見た、意味の分からない言葉や、曖昧にしか分からない言葉の正確な意味を読む機会を得るのである。

ところで、語彙(ごい)といったら、辞書には「ある言語、ある地域・分野、ある人、ある作品など、それぞれで使われる単語の総体。」という、非常に難しい説明があるが、一般には、「語彙力」とか、「語彙が豊富」いう言い方で、「言葉を沢山知っている度合い」程度に使うのではないかと思う。
人間の知的能力において、語彙力は非常に重要である。日本ではあまり聞かないが、アメリカでは、職業ごとの語彙力のレベルというものが調査・研究されていて、そのための語彙力テストというものも普及しているらしく、「医者になるなら、このくらいの語彙力が必要」といった基準値もあるようだ。私は実態は詳しくないが、ごく自然なことと思う。
また、アメリカの研究者が書いた、知的能力の向上をテーマにした本に、語彙力を増やすことが頭を良くするために非常に効果的であると書かれていた。辞書を使って語彙力の増大に努めた青年が、それによって能力を向上させ、より高度で、収入など、条件の良い仕事に就けたという例もあげていたが、それも十分にありえることだろう。ところで、その事例の、辞書で語彙力を磨いた青年が面白いことを言っていた話を私は覚えている。新しい言葉を憶えると、その言葉が、よく自分の周りに現れてくるようになるということだ。それは、単に、言葉の意味が解るようになったので、それらの言葉が使われている文章や話し言葉に対しての印象がまるで異なってきたという意味もあるだろうが、それだけではないかもしれない。神秘的に感じるかもしれないが、新しく憶えた言葉に対する状況を、自分の意思が作り出したり、引き寄せたりしているのかもしれない。そうとしか思えないようなこともあるのではないかと思う。

アメリカにミルトン・エリクソンという精神科医がいた。精神病院とか精神科医というものが、一般にあまり良いイメージが無いのは、それらにより、良い治療成果があったという話をあまり聞かないからというのもあると思う。最も有名な精神科医は、おそらく、ジクムント・フロイトだが、彼ですら、治療に成功したということはほとんど全くなかった。もちろん、精神の病気というものは治癒が難しいというのと、いったい、どんな状況をもって、治療が成功したと言えるのかも曖昧だということもある。いかなる人間でも、精神病患者であると言うことが、出来るといえば出来るのだ。うっかり精神病患者のふりをして入院したら、一生出してもらえないことになりかねない。これは、笑い話ではなく、似た話は多い。
だが、エリクソンの治療効果は凄いもので、魔法を使って治していると言われるほどだった。つまり、本人や家族が期待するより、はるかに大きな効果を、傍目には楽々と上げているように見えたのだ。以前も書いたが、治療にかかる時間が短いのも特徴で、手のつけられない不良男子高校生を一言の会話で完全に更生させたこともあった。
ところで、このエリクソンの、子供時代の興味深い話がある。彼は、辞書を愛読していた。ただ、その理由は、彼が生まれ育った家には、本は、聖書と辞書しかなく、彼は、そのうちの辞書の方を選んだというだけのことだった。その辞書を彼は何度も繰り返し読んだ。おかしいのは、学校で辞書を使うようになっても、彼は索引を使わず、先頭のページから順に見ていって調べたのだった。それは、馬鹿げたほどの時間のかかる作業に違いないが、そのおかげで、多くの言葉とその説明を、熱心には読まないまでも、少なくとも見てはおり、それらの言葉が彼の潜在意識に蓄えられたに違いない。彼は、治療の際、患者の無意識(潜在意識)を相手にするが、治療行為自体を、自分の無意識に任せていたという。それは、辞書に親しんだことで、自然に無意識と協力する習慣が出来ていたからではないかと思う。エリクソンの驚異的な治療方法は、当然、多くの優秀な研究者が研究しているが、いくら研究しても、エリクソンと同じことは誰にも出来ない。リチャード・バンドラーが、エリクソンの技術を参考にして、NLP(神経言語プログラミング)を開発し、優れた効果をあげたが、エリクソンほどではないだろう。それよりも、辞書を愛読する習慣でも真似すれば良いと思う。それは、精神治療だけではなく、あらゆることに有効と思う。







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運動しなくても、強くて美しい身体は得られる

人間は、やはり身体を鍛えていないといけない。痩せていても美しく見えない人は、健康でなかったり、身体を鍛えていない人だろう。
ところで、身体を鍛えると言ったら、スポーツをしたり、ジムでトレーニングするようなことを思い浮かべる人が多いかもしれない。しかし、そんなことをしていても、身体が弱かったり、腰痛などの故障を抱えている人は多いものだ。一方、世間でいう運動はしていなくても、惚れ惚れするような身体をしている人もいる。

週に数回とか、1日の間の僅かな時間だけ運動しても、あまり意味はない。むしろ、身体の故障を作る場合が多い。
それは、私のように、毎日欠かさず、腕立て伏せやスクワット、腹筋運動をしている場合でもそうなのである。
早い話が、特に運動をしなくても、強くて引き締まった美しい身体は作れる。
それは、ただ、「姿勢」で決まる。
立っていても、座っていても、隆とした姿勢でいると、それだけで、腹筋や背筋が鍛えられる。しかし、少しの間だけやっても効果はない。大切なのは1日中、美しい姿勢でいることだ。
美しい姿勢と言っても、力んで無理するのではない。美しい姿勢を保つのに必要な力を入れるだけだ。ただ、姿勢の悪い人には、最初はやや辛いかもしれない。
1日中、美しい姿勢でいると、それだけで素晴らしい鍛錬となり、決まった時間だけ運動するより、はるかに鍛えられるのである。逆にいえば、多少、運動をしていても、普段、だらけた姿勢をしていると、身体は強くならないばかりか、骨にゆがみが生じ、腰痛をはじめ、様々な故障を起こし、内臓まで悪くするのである。
昔の日本人は、正座をよくしていたが、正座をするだけで姿勢が良くなり、腰から上の筋肉が鍛えられ、内臓の働きも良くなり、健康で強靭な身体になったのである。

電車の中で、若い人に多いが、「よくここまでだらしない格好で座れるものだ」と思うほど、みっともない姿勢で座っている人が多い。そもそも、若いなら立ってろと言いたいが、立ってるなら立ってるで、やはりだらしない姿勢なのである。実際、若いのに身体が悪い人が非常に多いようだが、当然と思う。
一方、座っていても、背中を背もたれにもたれさせず、きちんと座っている人は、生気があり、肌つやもよく、若々しくて美しい。逆に土台がいくら綺麗でも、姿勢の悪い人は魅力が無い。
美容という点から言っても、若さ、美しさは、健康食品やエステなど何の関係もなく、普段の姿勢の方がはるかに重要なのである。
また、心身一体であり、身体の姿勢が良ければ心も美しく、逆に、だらしない格好で座ったり、立ったりしている者は心も腐っているのである。

明治・大正の偉人、岡田虎二郎は、岡田式静坐法で、人々を、真に生き生きとした、生命の力溢れる人間として目覚めさせようとしていた。そのために、まず、正しい姿勢で静坐することを指導したのであるが、虎二郎は、「生活しながら静坐していてはならない。静坐しながら生活するようでなければならない」と言った。その通りで、常に、正しい姿勢で生きなければ、静坐の意味はない。また、虎二郎は、法然上人の念仏を例に引き、「念仏するなら、生活しながら念仏してはならない。念仏しながら生活するようでなければならない」と言った。
これらに、人としての正しい生き方の極意を感じるのである。

私が普段からお奨めしている腕振り運動は、身体の歪みを直し、体内の気を活性化させて健康にするが、1日中腕振り運動をしているつもりで、しなやかで美しい姿勢でいるように心がければ、いっそう早く病気も治り、強く美しい身体が作れ、心もまっすぐになり、あらゆる力もつくと思う。
私の場合、腕振り運動などで、身体の活力が高まるから、毎日200回以上の腕立て伏せをしたりして楽しんでいるのである。ただ、最近、肩を壊して200回以上の腕立て伏せが出来なくなったのは、もっと柔らかくて美しい運動をしろという内部からの注意であったのだと思う。回数を目指すのではなく、1回1回の調子を味わう腕立て伏せに変えると、肩はもちろん、その他の部分も調子が良くなったのである。
あの植芝盛平や中村天風の高弟であった、佐々木の将人(ささきのまさんど)さんも、「いまどき、はあはあ言いながらやるような運動は駄目」と言っておられるようであるが、そうかもしれない。まあ、20歳頃まではそんな運動も悪くないかもしれないし、スポーツ選手の場合は、健康のためではなく、ファンを楽しませるためにやっているのであるから、無理は仕方ないかもしれない。しかし、我々がそれを真似してはならず、一流スポーツ選手のスポーツ教室には注意することだ。彼らの身体は、大抵、ボロボロなのである。

常に、食を慎み、大食や過ぎた美食をせず、その上、普段から良い姿勢でいるなら、健康で強く美しい身体になり、運勢も開けてくることは間違いがない。
腕振り運動は、簡単で、そのための良い力になると思う。
私も、今後、忙しくなってくれば、なかなか運動ができないかもしれないが、普段の姿勢と、食の慎み、そして、腕振り運動で、さらに身体は強く健康になると思う。
腕振り運動に関しては、当ブログ内の下記のリンクを参照していただきたい。
地球や天と共鳴する腕振り運動







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大発明家と大数学者の悟りの体験と最も誠実な著作

大発明家であり、NM法と名付けた発想法・能力開発手法で世界的に知られていた中山正和さんは、大数学者であった岡潔さんと同じ「悟り」の体験をしたことを著書で何度か書かれていた。中山さん自身は、自分は悟りを開いたことは無いとしているが、岡潔さんのものに関しては悟りだとしていて、それと同じようなことが自分にもあったと述べていた訳である。まあ、とりあえず、それ(中山さんが自分は悟っていないと述べていること)は偉大な数学者、岡潔に対する謙譲とでも考えておけば良いと思う。
中山さんのNM法は、仏教、特に、禅仏教を基にしたものであるが、岡潔さんも仏教を信仰していたことはよく知られていると思う。そして、2人とも、道元という禅僧の著作『正法眼蔵』を愛読していた。ただ、もしかしたら、中山さんは岡潔さんに倣って、それを熱心に読んでいたのではないかと思う。

彼らの悟りの体験とは、中山さんの書かれたものによると、次のようなものだ。
岡潔さんは、理解できないにも関わらず、道元の『正法眼蔵』を20年もの間、座右の書としていたという。ところが、20年ほど読み続けていたある時、不意に天啓が訪れ、その内容が一瞬で理解できたというのである。
中山さんも、『正法眼蔵』は分からなかったという。もともと、これは非常に難解な書として知られている。もちろん、解説本などは多く出ており、言葉の意味は十分に分かるのであるが、その真意が分からないという意味である。
一例をあげると、こんなことが書かれている。「薪(たきぎ)が先で、灰が後にあるのではない。薪は薪になりきっていて、灰は灰になりきっている。生の後に死があるのではない。生は生になりきっており、死は死になりきっている」といった感じだ。言葉の意味は十分に分かるが、これにどんな意味があるのか分からないのである。
だが、中山さんもまた、20年ほど経った時、やはり、一瞬で全て分かったのだという。

だが、私は、『正法眼蔵』が理解できないということに関しては、それが当たり前であり、特に問題にする気にならないのだ。
その「理解できない」というのは、論理を超えているということで、論理とは、人間の思考範囲に制限されたものである。なら、『正法眼蔵』が自然の内奥のことを書いているとしたら、それを知る能力を持たない人間の思考力で理解できる方が不自然である。
そして、『正法眼蔵』というのは、真理そのものではなく、真理の手がかりだ。言って見れば、活火山の火口から登る煙のようなもので、火口内は直接には見えないが、その煙が火山の内部の様子を知る手がかりになるようなものだ。
このあたりは、西洋のカバラーでは、人間の知性というのがひどく貧弱で、神の英知に導かれるためには、英知からかすかに漏れ出している手がかりを発見・収集し、巧妙に組み合わせ、そうやって体系化したものに則って、我々の理性や知性を導く必要がある。その方法がカバラーなのである。その修行体系の概要を示したのが、生命の木と呼ばれる象徴図形だ。

中山さんは、カバラーとは異なる方法で、『正法眼蔵』に書かれていることを理解できるような体系化に挑んだようであるが、さて、どうであろうか?
中山さんや岡潔さんという、並外れて賢い人達が、一瞬で分かったとはいえ、それには20年もかかったらしい。
だが、本当は、誰でも、いますぐにでも分かるものだと思う。実際、おそらく、私でも分かっているのだ。もちろん、論理的、知的に分かる訳ではないが、それは元々不可能なことなので、問題にならない。
私は、『正法眼蔵』の解説は読まない方が良いと思う。ただ、出来るだけ正確に現代語訳したものを、数行を数時間で読むくらいで読めば、誰でも分かると思う。書かれていることがどんな意味かなんて考えてはいけない、というより、考えるだけ無駄だ。最初から、思考能力なんて相手にしていない書物なのだ。
中山さんは、現代科学を使って、『正法眼蔵』の解明に取り組んだ著作を何冊出しているが、参考程度に読めばいいと思う。面白いし、確かに参考になるが、正直、それを読んでどうなるものでもないし、場合によっては、かえって障害になるのではと思う。
こういったことは、『老子』や『聖書』も同じである。これらの権威ある解説は、おそらく、全てただの偏見でしかない。
面白いのは、ルドルフ・シュタイナーの、仏教や聖書に関する著述だ。恐ろしく抽象的で、読んでいて頭にくるほどである。コリン・ウィルソンに言わせると、「古くなったトーストのように食えない」「かつがれている気がする」「信用詐欺のようなものと感じる」となるが、私の感想となんとも一致すると笑ってしまったものである。
だが、シュタイナーは本当に誠実なのだ。分かるはずのないことを、無理に分かるような偏見に翻訳しなかったのだ。彼の著作は、実際に聖典のようなものと思う。







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真の修行で起きること

学校で勉強することや会社で働くことを修行とは言わない。
学校のクラブ活動や、スポーツジムでトレーニングすることも修行ではない。

修行とは、世間の中での自分を超えるためにすることである。
世間の信念や教義の範疇にあるもの、すわなち、世間の栄誉や利益と関係するものは修行ではない。

人は、修行をしなければ、世間の中に浸り切って、愚か者の集団の一員でいるしかない。
その惨めな仲間から抜け出すためには、世間の中のこと・・・世間が定め、賞賛し、優越感を得られるような勉強やスポーツなどをいくらやっても何の意味もない。そんなことをしても、見掛けだけ立派でも、より強固な牢の中に入るだけのことだ。ただ、本人は、自分が大したところにいると思って威張っているのだ。
世間という監獄から抜け出そうとすると、あなたは抵抗に遭うだろう。世間の人々は、仲間の誰かが、その牢獄から出て行こうとすると、彼を激しく非難し、嘲笑し、そして攻撃する。あなたを、自分達と同じ惨めな状態においておきたいのだ。

何か修行をしなければ、つまり、世間の教義や信念を超える決意をし、一歩を踏み出さねば、もう滅びを待つだけである。

食の慎みは最大の修行である。
なぜなら、それは最大の徳でありながら、特に現在は、世間では決して誉められず、蔑まれ、非難されるからだ。
だが、だからこそ、我々はこれをやらなければならない。

『聖書』や『老子』を読むことも修行である。
だが、これらは、あまり世間の非難を受けることはなく、せいぜいが、嘲笑されたり、仲間外れにされるだけである。
ゆえに、食の慎みほどではないが、立派な修行である。
そして、これらの権威ある定説を無視し、一度に一節だけ読み、丸一日かけて一章を読み、直感で理解しようとする、本当の読み方をするなら、確実に世間を離れるための、優れた修行となる。

もう救いようのない人間に、食の慎みの大切さをいくら説いても、聞く耳は持つまい。
しかし、何か修行をしなければ、確実に最後なのである。
世間の価値の中にはない高貴な行いを、何か1つさせることが出来れば、非常に素晴らしいことである。

それが世間を超えた本当の修行であるなら、必然的に、世間を超えた力を持つだろう。
世間の人からすれば、その者は超常能力を持った存在になる。それを、昔から仙人とか導師とか魔法使いと呼んだのだ。
つまり、修行すれば、あなたはそれであるのだ。







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食を慎まざるを得なかった話

給食制ではなく、お弁当を持参するような学校では、多くはないだろうが、今でもお弁当を持ってこない子供というのはいるのである。その理由は、家が貧しかったり、親が子供の生活を気にする余裕が無いほど忙しかったり、あるいは、親が子供に無関心といった場合もあるかもしれない。
おそらくだが、最近では、そのような家庭が増えていると思うし、今後はもっと増えるのではないかと思う。
給食があれば、貧しくて給食費を払えなくても、まさか給食を取り上げられることはないだろう。しかし、随分前から、十分に払えるのに、勝手な言い分で給食費を払わない親が増えて問題になっており、そんな家の生徒には給食を出さなければいいという意見もあるようだ。しかし、本当に払えない家の子も、いかに少なくてもいるのであり、少ないからこそ、より配慮しなければならないであろう。

また、お弁当持参の学校では、生徒の中には、贅沢なお弁当を作ってもらえる子というのもいるかもしれない。しかし、お弁当を持ってこれない子にとっては、どんな質素なお弁当でも見ていられるものではない。そして、昔の日本のように、他にもお弁当を持ってこれない仲間でもいれば多少は楽だが、今なら、いても一人のことがほとんどだろうから、そんな時にはその子が、少々、凶悪な感情を起こしても無理はないと言うしかない。

普通の日のお弁当では、手の込んだお弁当を作りたくても、多少は考えて控えめにしていても、遠足などの時には豪華版を作るという母親は少なくないだろう。
だが、私が子供の時、実際にいたが、お弁当は持ってきてはいるが、質素というよりは貧弱なお弁当を持ってきていて、おやつも、決められた金額にまるで達していない、安いおやつを1つか2つしか持っていない子がいた。養護施設の子であった。ちなみに、おやつの金額をいちいちチェックされることはなく、金額の制限は事実上、無いに等しかった。
昔、沢村忠と名乗っていた超人的なキックボクサーがいて、三冠王の王貞治さんを差し置いてプロスポーツ大賞を取るほどのスーパースターだったが、彼はどんなに忙しくても、当時は孤児院と呼ばれていた養護施設に、お菓子をいっぱい詰め込んだ段ボール箱を抱えて訪問したり、その他の恵まれない人たちの施設のイベントにも参加した。彼は引退式の時、「施設や学園のみなさん、元気でがんばって下さい」と言ったのだった。彼は、不遇な時もあったが、どちらかというとかなり恵まれて育ったはずだが、一般に知られていない何かがあるのではと私は思っている。
また、私が親戚のお爺さんから聞いた話で、戦争のためだと思うが、親戚に引き取られた孤児の中には、引き取られた家にも余裕が無かったりで、露骨に虐げられていた子もいた。苦しい中で、大人も心が荒んでいたのだろうか。ある子は、遠足の時、お弁当を持たされたが、開けてみたら、砂が詰まったお弁当箱の中にリンゴが半分入っていたといったことがあったようだ。

今の日本では、本当の空腹を知らない人が多いだろう。
2003年のNHK大河ドラマ「武蔵」で、武蔵の幼馴染の女性であるお通(架空の人物)が、山賊に捕らえられ、長期間食べ物を与えられずに飢えさせられた話があった。そこで食べ物を与えることで、どんな人間でも、信念を捨てさせ、いいなりの手下にするというのが山賊の手口だった。両腕を縛られたまま、与えられた食べ物を、器に顔を突っ込んで必死に食べる様子を米倉涼子さんが熱演していた。しかし、自分が飢えを知らなければ、見ていてそれほどの迫力を感じなかったかもしれない(私も感じなかった)。
高倉健さんは、「幸福の黄色いハンカチ」という映画で、長い刑期を終えて刑務所を出、ビールとラーメンを美味そうに食べるシーンのために、2日絶食で挑んだという。早速、DVDを購入して見てみたが、さすがであった。このさすがとは、たかだか2日の絶食で、あそこまで感じを出せる高倉健さんの俳優としての実力である。私は、気紛れだったが10日絶食の経験があるが、5日や6日あたりは、さほどのことはなかった。
私が敬愛する丹波哲郎さんによれば、高倉健さんは大変な助平であるそうだが、そんな雰囲気がまるでない。つくづく名優である。

今は、焼肉、ハンバーグ、寿司などの沢山のお店が切磋琢磨し合っているために、実に美味しく、しかも安いらしい。
そういったお店に家族で出かけている様子をテレビで見たことが何度かある。子供達は大喜びで、好きなものをたらふく食べているが、そんな様子が私にはいつもひどく醜悪に感じられる。自分が、そういったものを決して食べないという主義であるからではない。自分が直接知っている子も含め、そんなものに全く無縁で、食べたくても食べられなかった、あるいは、食べられない子のことを思うと、どうにも見るに耐えないのだ。

海外では、学校で給食が出てはいても、それを持って帰って家族と分け合って食べるという貧困な家庭があることをテレビで見たことがある。
やはり貧困な国の学校で教師をしている日本人は、遠足の日に、子供達のために、お弁当を用意してあげた。その子達のほとんどが、見たこともない立派なお弁当で、子供達は狂喜したが、結局、誰もそれを食べず、持って帰ったという。子供達は、「こんな素晴らしいものを自分だけが食べるわけにはいかない。持って帰って、家族にも食べさせたい」と言ったようだ。

いくつかの小説や漫画で、飢えた子供が見ている中で、お金持ちの子供が美味しいものを食べているという場面を読んだことがある。きっと、作者の効果的な演出もあったのだろうが、私はその場面だけが記憶に刻まれてしまった(他の部分は忘れてしまった)。これも一種のトラウマというものだろう。
『フランダースの犬』でも、ネルロは、アロアの13回目の誕生日のパーティーに、彼女の父親に憎まれ顔を出すことが出来なかったが、それは2人の心に傷を与えたのも確かだが、ネルロにとっては、年に一度だけ、ご馳走が食べられる日という面も確かにあった。私には、それが卑しいことであるとは思えなかった。ネルロは偶然拾ったアロアの父親の財布を届け、見返りにパトラッシュの世話を願い、アロアの家を出た後、パトラッシュは飢えていたが、出されたご馳走に見向きもせず、一瞬のスキを突いて外に飛び出してネルロを追う。創作とはいえ、我々も犬に劣るようではいたくないものである。

1人では無理であるが、多くの人達が、適切な分だけ食べ、後は他に回せば、食料は世界で十分であることは間違いない。
食べられない人達の苦しみを、少しでも分け合おうという、そんな気持ちがあれば、食の慎みは訳ないことであろう。
富士山で百人でおにぎりをぱくぱく食べるのが友達ではない。おにぎりを持っていない子と、自分のおにぎりを分け合う者が友達である。
イエスと一緒の食事の席に付きたい者は多い。しかし、そんな者をイエスが友と呼んでくれるかどうかは分からない。だが、イエスと一緒に断食する者なら、そう呼ばれなくても彼の友と言って良いであろう。

一人ぼっちで寂しい時に、いちばんして欲しかったことは、「大丈夫?」って聞いてもらうことでも、優しくしてもらうことでもなくて・・・
おんなじ気持ちを分け合えること。寂しい気持ちも悲しい気持ちも半分こに出来ること。
ああ、そうだ、やっと分かった。私、この子と分け合いたいんだ。
「友達になりたいんだ」
~「魔法少女リリカルなのは」より。なのはのフェイトへの想い~
正直言うと、それよりも、なのはとの最終決闘の時、フェイトは何日食べていなかったのだろうと私は思ったものだった。







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