ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

遊び人のすすめ

時間をかけて、丁寧にやってるのに、結果は最悪になるというものがある。
例えば、料理では、真面目に、正確に、そして、丁寧に作っているのに、ひどい出来になってしまうという人がいる。
また、少なくはなってきた気はするが、床屋の理容師は、細心の注意を払って、ぴっちりきっちり整えながらハサミを入れた結果・・・最も格好の悪い髪型にしてしまうのだ。

その一方で、大雑把にさっさと描いているように見えるのに、実に良い絵を描く人や、イケメンでもないくせに、勢いで女の子をうまく口説いてしまうような者もいる。
そんな人達を、羨ましく思ったことがあるかもしれない。
細部に気を使わずに上手くやれる人にあるのは、力とリズムだ。
力だけでも、ある程度やれる場合もあるが、やはりガサツになってしまうし、リズムだけでうまくやろうとすると、小さくまとまってしまう。
優れた芸術家は、力とリズムがある上に、洗練されているのである。

まず、力とリズムがなければ良いものは作れず、一流芸大卒でも、ちっとも面白味のあるものを作れない者は多いのである。
力は、内なる衝動だ。
そして、リズムは、遊ぶことでしか作れない。
芸人だって、パワーのある者が遊んでこそ、観客を喜ばせる芸ができるようになるのだし、そこからさらに洗練させれば、一流になるのである。
学問だって、ずっと一番の秀才は、どこまで行ってもただの秀才で、成績では一段劣る者が立派な研究をするのである。
そこにあるのも、遊びの差だ。

岡本太郎という芸術家も、いろんな意味で、よく遊んでいたらしい。
フランスで、雑誌の表紙になっていたモデルのことで、記者に、
「ムッシュ岡本は、彼女と住んでたんですって?」
と聞かれて、太郎は、
「はいそうです。彼女の名前は、ええっと、ええっと・・・」
と、名前が出てこない。
数が多過ぎてこんがらがったのだろう。

遊びというのは何かというと、固定観念を外さないと面白くないものだ。
倫理的な節度を除けば、ノールールなのである。
危険なこともあるし、後悔もあるかもしれない。
しかし、今の子供達は、そんなことをするのを禁じられ、最も大切な経験をすることができない。
それで、力とリズムのない、面白味のない、大きなことの出来ない大人になるのである。

遊びなさい。
無茶しなさい。
親や教師は、逆らうためにあるのだと言って間違いない。
夏休みの宿題なんてしなくていいから、もっと遊びなさい。
コンピューターゲームも決して悪くは無いが、同時に、身体を使って遊んだり、働いたり、喧嘩したりしなくてはならない。
そうやって、力とリズムを得れば、夏休みの宿題なんて、あまりに些細な問題なのだ。

ところで、福永武彦さんという作家は、本当にリズムのある文章を書く人だ。
きっと、かなり遊んだ人だと思う。
彼の書いた『古事記』がロングセラーを続けるのはよく分かるし、彼が子供向けに書いた『古事記物語』も、本当に力とリズムがある。子供に読ませると、子供は元気になり、ノイローゼなんて治ってしまうかもしれない。無論、大人が読んでも良い。
もちろん、岡本太郎の作品も爆発している。
これらの芸術からインスピレーションを得て、愉快でイケてる遊び人になることだ。









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本当に強い人間はこう生きている

何かの本で、「インドの人達はカルマを信じているので、他人の不幸に冷淡である」と書かれているのを見たことがある。
カルマとは、業(ごう)と言われるもので、カルマの法則とは、過去、あるいは、前世で行ったことが自分に返ってくるというものである。
例えば、前世で他人をいじめて辛い目に遭わせた者が、今生では、自分がいじられる立場になって、その辛さを自分が味わうというものだ。
そのような因果応報がカルマの法則であるが、案外に多くの人達が何らかの意味で、そんなものがあるということを認めていると思う。

それで、誰かが、病気や貧困や人間関係で苦しんでいるとしても、それは、その者の過去や前世の行いの報いであるから、仕方のないことであり、黙って見ているしかないというものである。
むしろ、変に手助けしたり、慰めたりしたら、その者がカルマを解消(不幸の原因である悪い業を消すこと)するのを邪魔することになるので、余計なことをしない方が良いということになる。
ただ、他人を救ってあげたら、自分のカルマの解消になるという考え方もあるようだ。
しかし、それは、考えてみれば、案外に利己的な行いということになるかもしれない。

親鸞聖人は徹底したカルマ論者であったと思うが、仏教自体が、カルマ論の上に成り立っているのだから当然とも言える。
親鸞は、いかなるわずかな、些細な出来事も全て、過去の行いから生じていると言った。
だが、我々愚かな凡夫は、罪を重ね、次々に悪いカルマを作るので、不幸になる一方で、この世でもがき苦しむしかない。
しかし、「南無阿弥陀仏」の念仏を唱えれば、どれほどの重いカルマも、阿弥陀如来の力により解消されると親鸞は教えた。
その根拠は、浄土三部経にそう書かれてあり、師の法然を含む、過去の偉大な僧達の経典の解釈によるというだけである。
つまり、別に、論理的な根拠がある訳ではない。
ただ、親鸞は、自分にはカルマを解消するような力はないので、阿弥陀如来に頼るしかなく、もし、その教えが嘘だったとしたら諦めるとまで言っており、なかなか潔い態度である。

もちろん、今の時代、親鸞の教えをそのままを受け取るのは難しいと思うが、なんとなく、カルマというものはやはりあり、そして、それをどうやって解消したら良いのか分からないというところまでは同意できる人が多いかもしれない。
そこが、いろんな新興宗教の儲けどころという訳だ。
「うちの宗教に入れば、そして、その教えを守ればカルマは解消される」
というのであろうが、そこで必ず、教団への布施(寄付)が要求され、布施しないとカルマは解消されないと言いたいらしい。
それで、宗教関係者達が生活できるというのは良いことだが、その人達が、非常に豊かな生活をしているのがバレると、「それ、おかしいんじゃない?」となるのかというと、そこは、教祖様達の説得力によって変わってくる。

早い話が、寄付をするしないは、カルマの解消とは関係がない(カルマがあるとしてしまっているが)。
念仏に関して言えば、宗教の教えと違う意味でだが、絶対に効果がある。
だから、親鸞などの教えを、信じられるならそのまま信じても良いと思うが、それは、現代人にはちょっと無理ではないかと思う。
「南無阿弥陀仏」の念仏は、音として非常に素晴らしいので、効果があるのである。
それは、「アーメン」や「アジマリカン」が素晴らしいのと同じである。
それについては、いつも書いているので、ちょっと違うことを述べよう。

仏教の教えでは、この世は苦の世界であり、この世に生まれたということ自体が、かなりの悪いカルマを持っているのである。
それは、論理的に言っても、正しいことであると思える(論理を述べれば長くなるが、説明はできる)。
いずれにしても、この世に生まれたからには、それなりの苦しみは背負うものであり、生まれてから死ぬまで、何の苦難苦労もなく、安楽ということはあり得ない。
また、人生のある時点で完全に幸福になるということもない。
どれほど豊かになり、家庭や友人関係や社会でうまくいっているように見えても、決して悩みは尽きず、苦しいことは必ず起こる。
それは、どれほどの超人的な努力をする者でも、聖人のような人格者でも、王様でも同じで、完全に幸福になることは絶対にない。
完全に幸福になるのは、カルマを完全に解消して、もう二度とこの世に生まれてこなくても良くなった時である。

では、我々は、ペテン師も聖人も含め、どうすれば良いだろう?
どうしようもない。
やせ我慢するしかない。
ロサンゼルス・ドジャースのドジャースって意味を知っている人は少ないと思うが、「ペテン師集団」という意味だ。
意外に思う必要はない。
我々は誰でもペテン師だ。
彼らは、冴えたペテン師を目指しているだけだ。
しかし、どれほどクールなペテン師でも、やはりカルマを作り出し、苦しみは絶えない。
だから、苦しいことがあるのは仕方がないと諦めてしまうことだ。
それに対して、嘆いたり、文句を言ったり、愚痴をこぼしたり、慰めを求めたりしてはならない。
犯した罪の言い訳をしてもならない。
あらゆる行為は罪かもしれない。
だから、どんな時も決して言い訳をしてはならない。
やせ我慢が、人間の最も立派な状態である。
カルマの法則など知らなくても良いが、自分がやせ我慢し、他の人も、やせ我慢ができるよう導くのが、最も崇高な人間のあり方である。
念仏や呪文を唱えると、悪い状況が消えるように感じるのは、自分がカルマを飛び越えるので、世の中が夢のようなものになり、どうでも良くなるからである。









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なぜ勉強するのかの本当の答

子供の時から、一度くらいは、「なぜ勉強するのか?」と聞かれたことがあるかもしれない。
それで、仕方がなく、「良い仕事について、楽な生活をするため」と答えたかもしれないし、真面目に、「政治家になって、世の中を良くするため」と言ったかもしれない。
少し前に、科学実験教室に通っているような子供が、「大発明をしてノーベル賞を取るために科学を勉強している」とか言うのを、テレビで見たような気がする。
どれも愚かな答だ。
今、勉強していることが、どう役に立つかなんて分からないのだよ。

一度だけ、良い答を聞いたことのを、よく覚えている。
「将来、子供ができて、その子供に勉強の質問をされて答えられなかったら恥ずかしいから」
この答のどこが良いかというと、言ってる本人が嘘だと分かっているからだ。
実際、この答は、とても優秀な女子生徒のものだった。
彼女は、「何で勉強する?そんなこと分かんないわよ」という答が、学校や世間で通用しないことを理解しているので、一番マシだと思う嘘を言ったのだ。
たとえ嘘でも、「沢山お給料がもらえるようになるため」という卑しい答はしたくないのだろう。

「プロの選手になれるかどうかなんて全然分からないけど、僕はサッカーが好きだから、サッカーをしてるんだ」
と言う子供は強くなるだろう。
サッカーがというのではなく、もっと大きな意味でね。
どう強くなるかは分からないが、不幸にはならないだろう。
この子には、幸運を呼ぶ力、幸福になる力があるからだ。
ただし、本気で好きでないといけない。
単に、テレビゲームをしてると面白いからゲームばかりやってるというのでは、弱い人間になってしまうかもしれない。
また、「プロのサッカー選手になって、本田選手みたいになる」って言う子は、やっぱり強い人にはなれないのだ。

明日のことなんて分からない。
今やっていることが何の役に立つのか?
そもそも、何かの役に立つのかどうかも分からない。
だけど、「内なる声」とでも言おうか、何か囁きかけてくるような感覚、衝動を感じたら、それに従ってみることだ。
今の学校、社会、家庭では、この一番大切なことを、完全に無視したり、消してしまおうとしている。

「なぜ殺してはいけないか?」
という問題も、同じだ。
そんなこと、分かるはずかない。
ただね、やったことは、どんなことでも、全てにつながるのだ。
勉強でも、スポーツでも、仕事でも、ボランティアでも、人殺しでもね。
いや、誰かにちょっと声をかけるとか、猫を撫でるとか・・・それどころか、考えることすら。
だが、どんなふうにつながるかなんて分からないのだ。
善いと思うことをしたからといって、必ずしも報われるとは限らない。
後悔するようなことをしたからといって、必ずしも悪いことが起こるとは限らない。
でも、つながることだけは間違いない。
そして、神様は気紛れではないし、運命にイタズラなんてない。
でも、何がどうなるかなんて、人間には分からないのだ。
ただ、あらゆる点はつながり、線になり、円にも球にもなるってことだけは覚えておくと良い。









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王者の魂

謝罪会見というものがよくある。
問題を起こして世間に迷惑をかけた社長さんらが、テレビカメラの前で禿げ頭を深々と下げ、それを記者達のカメラのフラッシュが照らすというのが恒例のようだ。
人気者だが、刑務所に入れられた者達も、出所時に、テレビカメラや記者や野次馬の前で、やっぱり深く頭を下げる。

本来、頭を下げるというのは、上下関係をはっきりさせるということであり、別段、「謝罪する」という意味はないのだが、上とか下にこだわる卑しい人間性が、こんなおかしな慣習を作ったのだろう。
私は、誰にも頭を下げて欲しくないし、頭を下げるのを見たくもない。

多くの歌手が、歌い終わった後に頭を下げ、古いタイプの歌手なら、歌う前にも頭を下げる。
これは、「お金を払って下さい」という意味で、やはり、払ってもらう方と払う方の上下関係をはっきり示すことである。
決して、高潔な意味がある訳ではない。
就職の面接の際、部屋に入ってくるなり、応募者は頭を深く下げ、面接が終わって出て行く前にも、最大に頭を下げる。
これもまた、「お金を下さい」と媚びているだけで、応募者の優秀さや人間性の高さなど、全く表していない。

頭を下げるというのは、謙虚さを示しているのではない。
単に、上下関係を形にし、不当なお願いをし、時に、相手を油断させて足元をすくおうとすることなのだ。

映画『燃えよドラゴン』で、ブルース・リー演じる武道の達人リーが、少林寺で少年の修行者に稽古をつけてやった後、相手の少年が頭を下げると、その頭を叩く。
うつむいていたからだ。
リーは、お辞儀をする時も、相手から目を離すなと教える。
これは、「いかなる時も警戒を解くな」という意味でもあるのだろうが、それだけとは思えない。
そのように、こっちを見たまま頭を下げられると、あまり良い気はしないかもしれない。
だが、それは同時に、媚びていない、不当な要求をする気がないことを示している。
私なら、こっちの礼の方がまだ好きだ。

初音ミクさんが、コンサートで、おそらく一番変な姿で歌う『キャットフード』という歌の中に、「媚びない、それが私自身」という言葉があるが、良い言葉であると思う。
媚びない女が一番いい女だということを知っている男性は・・・昔は多かった。
今は、頭を下げる女が好きな男が多い。
今の男に本当の力がないのだ。
つまり、頭を下げる男ばかりなのだ。

王者は頭を下げない。
岡本太郎は決して頭を下げなかった。
ポーズで下げる時は笑っていた。
あなたは王者になるのだから、頭を下げてはならない。
ポーズで頭を下げても(世間的には必要だ)、うつむいてはならない。
老子は、本物の王者は自分を、「みなしご、孤独な者、不作な者」と自称すると言う。
たとえそうでも、王者は頭を下げないのだ。

時代劇小説『木枯し紋次郎』に登場する、一番いい女は誰だろう。
それは、帰ってきた紋次郎シリーズでも、一番最後に登場する、ふみという名の娘だ。
しびれるほどいい女とは、こういうのを言うのだ。
ふみは、事情はあるが、娘とはいえ、商家の主だった。
彼女の使用人が、柔らかいものだが、武士の顔に当ててしまい、激怒した武士が「手討ちにしてやる」と凄む。
ふみは、武士の前に正座し、謝るが、頭は下げず、武士をじっと見ている。
そして、私を切れと言う。
軽視されたと感じた武士はさらに怒りを燃やし、いよいよ大刀を抜き、ふみに向かって振りかざすが、やがて脂汗を流し、逃げるように立ち去る。
彼女こそ、本物の王者である。
その彼女も、紋次郎には頭を下げるのだが、「軽く」とちゃんと添えて書かれていた。
紋次郎は、ポーズとしては頭を下げるが、やはり、媚びて頭を下げることは絶対にない。
あなたは、ふみと紋次郎の魂を喰らって王者になるがよい。









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神秘的な辞書効果

頭の良い人ほど、語彙が多い・・・つまり、沢山の言葉(単語や熟語)を知っている。
ところが、逆も真で、この逆とは、「沢山の言葉を覚えれば、頭が良くなる」という意味だ。
たとえば、こんなふうにである。
医者になるためには、最低、IQ(知能指数)が122必要だが、ある高校生は、医者を志望しながら、IQが96しかなかったので、無理だと言われた。
ところが、彼は、辞書を使って語彙を増やしていったところ、IQが148に達し、成績も急上昇して、医者になることができた。
だから、頭を良くしたければ、語彙を増やせばよく、時間をかけてやるなら、良い本を沢山読めば良いし、上の高校生のように、早く頭を良くする必要があれば、辞書を常に持ち歩いて、言葉を沢山覚えれば良い。
「魔法を使って治している」とまで言われた天才的精神科医のミルトン・エリクソンは、生まれた家が貧しく、家には、聖書と辞書しかなかったが、彼はなぜか、辞書を選び、それを繰り返した読んだ。
とろこが、彼は、かなり大きくなるまで辞書の引き方を知らず、調べる時は、いつも辞書の最初から・・・つまり、Aから見ていった。
つまり、あまり賢い方ではない・・・いや、アホだ。
しかし、偉大な精神科医になったエリクソンは、辞書を繰り返し読んだことや、何かを調べる度に、沢山のページを見たことが、自分にはとても良かったと述べている。
彼は、沢山の言葉を覚えることで、IQは打ち上げ花火のごとく上がったのだ。

そして、言葉を覚えることには、別の不思議な効果がある。
これを知らないのは人生の損失なので、よく覚えておくように。
辞書を使って語彙を増やしていく中で、新たに覚えた言葉に不思議なほど、偶然に、頻繁に出合うようになる。
新しい言葉を覚えると、その言葉は、あなたの新しい世界になる。
あるいは、あなたの世界の、これまで停止していた部分を活性化する。
それが、あなたにチャンスや幸運を運んでくる。
ただ、下らない言葉を覚えると、あなたの世界が汚れた、重い(不活発な)ものに変質する。
といはいえ、辞書に載っているような言葉なら、言葉自体の意味は悪くても問題はない。
例えば、好きな女の子がいるが、あまりに高値の花で、近寄ることもできなかったのに、言葉を百も覚えたら、いろいろなきっかけが生まれ、その女の子は彼のものになったのだ。
こういったことは、アメリカなどの能力開発研究所などではよく報告されており、私も、ウィン・ウェンガー博士の本などで読んだことがある(どの本だったかは忘れたが)。

大人になってから、言葉を沢山覚えるコツは、語源から覚えることだ。
私は最近、英語の原書を読めるようになろうと、英語の単語を語源から覚えるようにしているが、世界が目まぐるしく動くようになった。
ぐずぐずしている手はない。
すぐに始められることをお奨めする。









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


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