ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

矢は放たずに磨く

成功というものは、的に向かって矢を射ることではなく、矢を磨いているうちに的が勝手に当たるようなものだ。

成功した人は、最初から、その成功したものをやりたかったのではなく、「たまたま」それをやることになり、そして、うまくいったのだ。

それは、決して、映画『サウンド・オブ・ミュージック』の歌、『Climb Every Mountain』のように、「全ての山に登り、全ての流れを渡り・・・」とか、竹村健一さんが昔言われた「アメーバ人間」のように、何にでも触手を伸ばせば良いということではない。
自然にそうなったのなら、そうすれば良いが、それは成功を助けも、妨げもしない。
表面的には、あれこれやった後に成功した人もいるが、何にもする気がなかったのに、やらざるを得ない状況になってやったことで成功した人が多いのだ。

『三年寝太郎』は、三年寝ている間に、何かを磨いていたのだ。
そして、寝太郎は、干ばつに苦しむ村の人達を、どうやったら救うことができるか考えていたのだ。
成功した人を調べれば、全て同じようなものなのである。

成功した人達は、長い間、何かを磨いていたのだ。
そして、一定以上の人々のために、何かをしてあげたくなったのだ。
ビル・ゲイツが、自分のコンピューターを欲しがっている人達が、それを得られるようにしてあげたいと思ったり、ドワンゴの川上会長が、ネットやゲームばかりやって社会的に駄目になった人達を救おうと思ったり、アーマンド・ハマーが旧ソ連の人々を救いたいと思ったようにである。
成功した人というのは、一人残らず、そんなことをずっと考えていたのだ。
そんな人には、何かが起こるものである。

誰かに奉仕しようと考えなければ、何かを磨こうという気にはならない。
磨いていなければ、何も出来ない。
ただ、何かを磨いていても、多くの人々の役に立とうと思わなければ、自分だけが何とかやっていける位にしかならないだろう。
しかし、何も磨いていなければ、人々の役に立とうと思っても、何も出来ず、自分の面倒すら見ることが出来ないだろう。
長い時間をかけて何かを磨き、自分が助けたいと思う人々を喜ばせることを考え続ければ、救おうとする人達の数に見合った成功を収めるだろう。









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世の中に対して恨みがあるなら天才である

昔、ディール・カーネギーの『人を動かす』を読んだことがあるが、その中で、人間が最も求めるものは「自己重要感」であると書かれていたと思う。
「自己重要感」で意味が分からない訳ではないが、我々人間が最も求めるものなのに、こんな日常使わないような言葉で表現するのは、おかしなことだ。
そもそも、「自己重要感」とは、自分の価値を実感することであると思うが、人間は、そんなものを求めている訳ではない。
人間は、他者の承認を求めているのだ。
他者の承認は、自分に価値があるから得られるというのは、西洋的な考え方であり、それは誤解だ。

子供は親に大事に思われる場合が多いが、それは、論理的な意味で子供に価値があるからではなく、本能的なものだ。
もし、子供に価値があるから大事にするというなら、それは打算的な親切だ。
「馬鹿な子ほど可愛い」というが、子供に何の値打ちもなくても大事に思うのが本能であり、それが純粋な愛と言えるかもしれない。

人間が求めてやまないのは、どんな理由も必要としない盲目的な愛なのである。
分かり易くいうなら、無条件で大事にして欲しいのである。

多くの子供は、親からだけは、本能による盲目的な愛が得られ、無条件で大事にされる。
親以外から、盲目的、一方的な愛を得られるのは、普通に考えると、容姿が優れた子供・・・いわゆる、美少年、美少女だ。
ところが、それよりも重要な条件が、「分かり易い子供」であることだ。
分かり易い上に美少年、美少女であれば、誰からも非常に大事にされるが、たとえ容姿が優れていても、分かり難い子は、分かり難いほど、承認されず、大事にもされない。
逆に、多少、容姿が冴えなくても、分かり易ければ承認され、大事にされるのである。

大人になれば、ますます、分かり易い者が承認され、大事にされるということがはっきりしてくる。
美男美女であったり、特別な能力を持っている者が認められるような気もするが、そうではない。
どんな天才、図抜けた美男美女であっても、分かり難ければ誰も好きにならないのだ。
例えば、ミュージシャンで俳優のGACKTさんは、凡人を超越したシュールな超美男子のようなイメージがあるが、あれほど分かり易い人はいない。
イチローや浅田真央さんは天才かもしれないが、全然理解し難い人達ではなく、人間的な部分では極めて凡人である。
ただ、彼らが凡人の演技をしていることは考えられるが、その演技はうまくいっているのだ。

分かり難い者は、子供の時から、誰にも承認されず、大事にされず、そればかりか、嫌われる。
粗探しをされ、欠点をクローズアップされ、蔑まれ、馬鹿にされ、見下され、疎まれ、悪意で無視される。
容姿や能力が劣っていれば、そんな仕打ちは厳しくなる場合が多いが、優れた容姿や実力があるのに、さっぱり認められず、悪いところばかり見られて嘲られると、より辛く、また、「なぜ?」と困惑する。
そして、彼らは、世の中に恨みを持つようになる。
イアン・フレミングの『007シリーズ』で、ジェームズ・ボンドは、「私は背の低い男を信用しない。彼は背が低いことで劣等感を持ち、世の中に対して恨みを持っているからだ」と言ったらしいのだが、それなら、ボンドは間違っている。
背が低くても、分かり易い人間であれば、誰からも好かれるので、劣等感はあまり強くはなく、世の中に恨みを持ったりしない。
背が高くても、分かり難ければ、誰にも好かれず、よって、承認されず、大事にされないので、劣等感を持ち、世の中に対して恨みを持つのだ。

オタクというのは、普通の人には分かり難い。
分かり易いオタクというものがあるなら、それはオタクではなく、単なるマニアだ。
ただ、何かが好きなマニアってのは分かり易いのだ。
だから、オタクの多くは、劣等感を持ち、ネットに逃避し、世間から引きこもり、世の中に恨みを持つ。

だがね、分かり難い者というのは、とても優秀で、天才である場合も少なくないのだ。
優秀だから、普通の人には分かり難いのだ。
ドワンゴの川上量生さんは、本当に頭のいいやつはネットにいると言われていたが、そこしか居場所がないのだ。

世の中に対して本当に恨みがあるなら、それは優秀な証拠なのだ。
だが、恨みを持っている限り、能力は発揮されない。
恨みは荒い呼吸と共にある。
なるべく微かな呼吸をすることで、恨みは消える。
恨みもそうだが、邪悪な感情は粗雑を餌にする。
微かな呼吸は精神を精妙にする。そこに、邪悪な感情はいられないのだ。
世の中に対して恨みを持っているが、偶然に微かな呼吸を身につけた者が飛翔したのである。
政木和三さんは吃音のせいで世の中に恨みを持っていたが、腹式呼吸の訓練で微かな呼吸を得て才能を示せるようになり、戦争中、学生でありながら、数千円で家が建った時代に千万単位の金も稼げた。
もう、ほとんど息をしていないようになれば、何でも思い通りになるだろう。









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正座は脚の成長に悪いか

「成長期に正座をすると脚が短くなる」とよく言われ、半ば公然の事実とされているような雰囲気もある。
一方、「それは事実無根。それどころか正座は身体に良く、子供に正座させるべき」という主張もある。

どちらの意見が正しいのだろう?
長時間正座をすると、しばらくの間、脚が痺れ、足首が伸びたまま曲げられなくなり、歩くこともままならない状態になる。これは、血行が阻害されているのだから、少なくとも、正座が脚に悪い影響があるのは間違いない。
それは、成長にも悪影響があると考えてもおかしいとは言えないだろう。

一方、正座をしている時は、それほどひどい姿勢にならないので、その点では、肉体的、精神的に良い影響があると思える。
また、正座では、普通、何かにもたれかかることがないので、腹筋や背筋が鍛えられるという人もいるが、それも正しいかもしれない。

自然に背筋が伸びる座り方は正座以外に思い当たらない。
一方、椅子に座れば、容易く姿勢が悪くなりがちで、実際、電車の座席に座っている人の多くは、実に姿勢が悪く、そんな座り方が、身体だけでなく、精神にも悪い影響を与えていると思われるのである。

ところで、「自然に良い姿勢で座ることが出来る椅子」の宣伝を見ることがあるかもしれないが、あれは駄目だと思う。
ああいった椅子は、「無理に良い姿勢をさせられる椅子」であり、なるほど、あれに座っている間は良い姿勢になるかもしれないが、それ以外の時の姿勢まで良くなるとは思えない。
なぜなら、良い姿勢は、あくまで、自分の意思で良い姿勢をすることによってのみ、習慣化するからだ。
正座は、自主的に背筋を伸ばさないと出来ないので、姿勢を良くする効果はやはりあると思う。

ところで、私の父親は、「子供には正座をさせなければいけない」という信念を持っていたようで、私は、夕食の時はずっと正座だった。
また、これも父親の好みと思うが、習字を習いに行かされ、そこでも正座であった。
私が小学6年生の時に家を建てたのだが、父親は椅子に座る食卓にするのを嫌がった。
しかし、今どき、そこまで和風の家にすると不都合が多いということを、父親も認めざるを得なかったのだと思う。
さらに、家を建てた場所の周辺には書道教室もなく、私はついに正座から解放されたのである。

では、他の子より多く正座させらたことが、私にどんな影響を与えただろう?
まず、私は普通の子より、かなり姿勢が良かったと思う。そして、これには確かに、正座の効果があったのだと思う。
次に、脚が短くなったかだが、子供の時の私の写真を見ると、確かに、身長が高かった割に脚が短かいと思うのだ。
私より背の低い子に、「俺の方が脚が長い」とか、「俺の方が背は低いが、脚の割合は俺の方が上だ」とはよく言われた覚えがある。
子供は、脚の方が先に大きく成長するので、成長期には、身体全体に対し、脚の割合が大きい場合が多いようだ。
実際、小学生では、身体の半分が脚という子をよく見る。
だから、子供の時に脚が短かったら、大人になったら、さらにその傾向が高まると思われる。

私は、高校2年と3年の時の身体測定では、身長176.0cm、座高93.4cmと全く変わらず、股下(身長-座高)が82.6cmだった。
身長176.1cmの日本人の平均股下が80.7cmというデータがあり、それでいえば、私は平均より約2cm長いことになる。
以前も書いたが、最近、厳密に計測したところ、身長177cmで、股下が84.8cmだったが、これは、身長177.1cmの日本人の股下の平均値の81.3cmより3.5cm長い。
※データは、「日本人の成人 平均身長・平均股下 (c)2007-2015 REAL TRIATHLON」を引用した。
最近、ユニクロで買った股下無修正で85cmのパンツのすそが、まさに床にすれすれだったから、計測は正しかったのだろう。

よって、私は、正座の習慣をやめた中学生以降、脚の部分が良く伸びたのだが、その要因は、スクワットをしていたことと思う。
ただし、スポーツ部に入って厳しくやったのではなく、適当にやったのが幸いしたのだと思う。
また、体重以外の負荷をかけなかったのも良かったと思う。
それと、小学生までの正座で、椅子に座った時に、他の子がよくやるように、腰をだらしなく前にずらさなくなっていたことも、脚の成長に役立っていたかもしれない。

あくまで推定だが、子供の脚を長くしたいなら、次のようにすれば良いと思う。
(1)正座はさせず、椅子に正しい姿勢で座るよう指導する(ある程度は厳しく指導する必要があると思う)。
(2)適切な回数のスクワットをする。小学生なら1日1度で、回数は20~30回、中学生で50回(女子は30回)程度が良いと思う。
(3)歩く、走るなどの運動も十分にさせる。ただし、クタクタに疲れるまでやってはならない。もちろん、時々は思いっきり運動すると良いだろう。

尚、私は、この数年か、もっと最近に、少なくとも脚が1cmは伸びている。
これは、少食と、常日頃、なるべく肛門を引き締め、1日千回(朝夕五百回ずつ)の腕振り運動をすることで、骨盤などが良い状態になったのだと思う。
『ほとんど食べずに生きる人』は、医師の監修の下に書かれた少食実験の記録が記載された本だが、60歳を過ぎた著者が、178日で、脚が2cm長くなっている。
彼は、ウォーキングを熱心にやっていることが関係していると思う。
やはり、少食と肉体的訓練で、何歳でも脚は長くなると思う。
また、ついでに言っておくと、微かな心の声の呪文を使うなどをすれば、現実を書き換えることが出来ると私は思っている。









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人間の動機は全て「なんとなく」である

クライスラー再建に成功した伝説のCEOリー・アイアコッカの自伝『アイアコッカ』は世界的ベストセラーになった。
そして、アイアコッカは『アイアコッカ Part2』を書くのだが、この本の中で、アイアコッカは、「2はつまらん。2は1を超えない」と述べ、『ジョーズ』という巨大サメが出てくる映画の続編である『ジョーズ2』が面白くなかったことを例に挙げていた。
それでも、アイアコッカは、自分がなぜ『アイアコッカ Part2』を書いたかの理由を述べていたはずだが、私は覚えていない。
だが、『アイアコッカ Part2』は、『アイアコッカ』ほどの迫力はなかったが、結構面白かった。

アイアコッカは「2はロクなものにならない」と書き、『ジョーズ2』や、他の「2」作品をこき下ろしていたが、『ターミネーター』は5まで来て、まだまだ続くそうだし、『スターウォーズ』も『ロッキー』も延々続いたし、『スターウォーズ』はやはり、まだまだ続く。
『ロッキー』も、『ロッキー5/最後のドラマ』から16年経って『ロッキー・ザ・ファイナル』が2006年に出来た。
そして、大抵の人は、ロッキーの新作もまた出来るだろうと思っていただろうが、やはりそうなった。
出せば儲かるのは分かっているからだ。

ところで、どこかで見たが、スタジオ・ジブリは、作れば儲かるはずの『天空の城ラピュタ2』や『千と千尋の神隠し2』などを1作も作らないし、作るつもりもないらしい。
さきほど、アイアコッカが、「2」は駄目と分かっていながら『アイアコッカ Part2』を書いた理由を私は忘れたと書いたが、ジブリが「2」を作らない理由も、私は覚えていない。
覚える必要がないからだ。
なぜなら、そんな理由は嘘だからだ。
ジブリに関しては、ラピュタ2みたいなものを出したら、「2」ばかり期待されるようになるとか、ジブリ自体も「2」に逃げて創造力がなくなるなんて説明を誰かがしていた気がするが、それは、「表向き」の理由だろう。
そもそも、「なぜ私はこうするのか」、「なぜ私はそうしたのか」といったものは、どれほど理路整然としていたり、感動的なものであろうと、全部嘘と思って間違いない。
だが、私は、ジブリが「2」を作らない理由を、「なんとなく」だと言われたら納得する。そして、それが本当の理由なのだ。

ビル・ゲイツは昔(当時、マイクロソフト会長だった)、会長室に何日も閉じこもり、出てきたら、「我が社はインターネットに全面的にシフトする」と全社に号令をかけた。当時は、まだ、インターネットは、それほど重要視されていなかった。
ゲイツの読みは正しく、あの時、ゲイツが判断を間違っていたら、マイクロソフトはロータスの二の舞になったことだろう。
そして、ゲイツは論理的に判断したつもりかもしれないが、やはり、最終的にゲイツを決断させた理由は「なんとなく」なのだ。

初音ミクさんの歌『ODDS&ENDS』に、

いつもどおり君は嫌われ者だ
なんにもせずとも遠ざけられて 努力をしてみるけど

その理由なんて「なんとなく?」で
君は途方に暮れて悲しんでた
~『ODDS&ENDDS』(作詞、作曲、編曲:ryo、歌:初音ミク)より~

とあるが、皆が「君」を嫌う理由は、理不尽に思えるが、やはり本当に「なんとなく」だ。
その「なんとなく」が何なのか解明しようとしたら、それなりの原因が出てくるかもしれないが、やはりそれは嘘なのだ。

結婚相手を決める時、誰も、論理的に考えて判断したりはしない。
それも「なんとなく」決めただけなのだ。
もし、論理的に判断して決めることがあるとしたら、それは、「どうでも良いこと」や「取るに足りないこと」であるはずだ。

「なんとなく」の正体が何かというと、感情だ。
感情は論理より強い衝動、動機だ。
ジブリの制作者達は、「2」が感情的に嫌いなのだし、ゲイツは「インターネットに全面的に取り組みたかった」のであり、『OODS&ENDS』で、皆が「君」を嫌ったのは、「君」に、皆の感情に悪い影響を与える何かがあるのだ。

「是非好悪」の「是非」は論理的なものだが、「好悪」は感情的なものだ。
しかし、「好悪」が強いと「是非」を誤る。
ゲイツは、感情を落ち着かせるのに何日もかかった(大変な重大事だから、興奮を抑えるのは並大抵でなかった)。
そして、十分に感情が静かになった時に、「是非」と「好悪」が一致した。
それがタルムードの教えなのかなあと思う。









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真のプライドとは

悟りを開かない限り、人間は自我に支配される。それは避けられない。
そして、ほとんどの人は、一生、悟りを開かない。
それなら、人に負けない何か、自慢できる何かを持っていなければ、楽しくないし、精神は安定しない。
そんな現実も、無視してはいけない。
だから、何にプライドを持つかということは、すごく大事なことなのだ。
プライドが高過ぎるのはもちろん良くないが、プライドを持ちたい気持ちを無視してもいけない。
そこで、プライドについて、もっと真面目に考えてみる。

美人とか長身というのは、一応はプライドになり得る。
しかし、パパが社長とか、ブランドもののバッグを持っているとかいうのは、プライドにならない。
なぜだろう?
美人というは、それはそれで、やっぱり実力なのだ。
しかし、親や恋人、あるいは、友人が偉いとか、乗っている車や持ち物が素晴らしいというのは、自分の力ではないのだ。
だから、そんなものをプライドにしようとしても、所詮、虚勢になってしまうのだ。

次に、時間が流れ行くことに注意しなければならない。
金メダルを取ったとか、百人殺したなんてのは、プライドにしちゃいけない。
なぜなら、それは過去のことであり、時が経つごとにリアリティが弱まるからだ。
記憶の鮮烈さが薄れ、色褪せてくると共に不安になる。
すると、周囲に自分がいかに凄かったを話し、感心してもらわないと気が済まない。
若い頃に栄誉を得た老人がやたら自慢話をするのはそのためだ。
いずれにしても、それらは、所詮、過去のことであり、今の自分に本当のプライドを持たせてなどくれない。
だから、どれほど立派なことをやりとげたとしても、終わったらすぐに忘れるべきである。

美人であることは素晴らしいことだ。
ただ、いつまでもそれをプライドにしていると、衰えていく容貌への不安が起こり、やっぱり、周りから承認を得ようと躍起になる。
それは、年を取って、美しくなくなっても続く、哀れな足掻きである。
だから、若い時に美人だった者ほど、年を取ると惨めになり易いのである。
全ては変化する。その変化を受け入れることが出来ないようなプライドは、早めに捨てなければならない。
そして、早く、一生もののプライドを見つけることだ。
時が経てば経つほど、磨かれ、輝く何かをプライドにすれば、その人の人生は楽しいものになる。
だが、そのようなものを持つ者は、滅多にいないのである。









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
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