ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
コンピューターシステム開発技術者、サイコパスのKayのブログ

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。
[2016/11/21]滅多にはありませんが、あまりにレベルが低いコメントは公開しません。
[2011/06/08]迷惑コメントが多くあったため、やむなく、コメントを承認後公開することとしました。

大きなつづらと小さなつづら

神話、昔話、伝説などは、裏読みをすると、面白かったり、真意が解ったりすることもあります。
いえ、それどころか、裏読みをしない限り、それらに本当の価値はないのかもしれません。

舌きりすずめのお話では、欲のないおじいさんは、すずめから小さなつづら(ツツラフジという植物で編んだかごのこと)をもらいましたが、その中には素晴らしい宝が入っていました。
私は、5つの時、幼稚園でこのお話を聞いた時、はっきり憶えているほど印象に残ったおじいさんの言葉があります。それは、「わしは年寄りだから小さいのでいい」です。
おじいさんは、すずめに、「大きなつづら、小さなつづら、どっちが良いか?」と聞かれて、そう答えたのです。

小さいとはいえ、金銀、小判などが入っていたのですから、それなりに重く、背負って運ぶことは、おじいさんにはこたえたはずです。
そして、中に何が入っているかは、おじいさんは家に帰って開けてみるまでは分かりませんでした。
すずめは、本当はこう言ったのかもしれません。
「ここは地獄じゃ。荷を負わねば帰れぬぞ」
そこでおじいさんは、
「わしは年寄りなので、小さいので勘弁してくれぬか?」
と言い、すずめも、
「お前は私を可愛がってくれたので、まあ、良いじゃろう」
と了承したのです。

おばあさんは、そんなおじいさんに対し、
「そんなファイトの無いことでどうする!私なら・・・」
と言って出かけて行き、大きなつづらをもらいました。
その大きなつづらには、確かに沢山の金銀財宝が入っていました。
しかし、おばあさんには、その重みに耐える器量がなく、身を滅ぼしたのです。過ぎた宝は、伝承の通りオバケのようなものです。
おばあさんは、多くの宝を資金に、人類救済活動をしたかったのかもしれませんが、そこに私心や虚栄があったのかもしれません。
おじいさんは、その後、だんだんと力を付けて、次々に大きな宝を手に入れ、偉大な人物となって、人々を救い、自らも幸福に過ごしたことでしょう。五百歳くらいまでは生きたのではないですか?

「人生とは、重い荷を背負って坂道を登るようなものだ」とういう有名な言葉を残した徳川家康は、小姓(身辺の世話をする係の少年)に、「身の程をわきまえろ」と教えました。
過ぎた宝は、身を滅ぼしますが、分相応の宝であれば良いものです。
そして、宝は、最初は重荷という姿をしています。
イエス・キリストは、「重い荷物は神様に預けろ」と言いました。大きな荷物は神でなければ背負えません。
ただ、イエスは、手ぶらで進めとも言っていません。それなりの荷物は持てと言ったと思えてなりません。
我々が人生で出逢う苦難は、「軽い荷物」です。
重いのは、かたじけなくも神様が荷ってくれますので、与えられた荷物を文句を言わずに運べば、神様は褒美をくれます。
ハイキングの時、良い父親は、子供にそれなりの荷物を持たせます。それを文句を言わず、ましてや、笑って運ぶ子供には、褒美をやらずにはいられないはずです。イエスは神を父と呼びましたが、そこらの事情は神様も同じと感じます。




【日本昔話百選】
日本語の語り口調のリズムを大切にした文章が懐かしさを感じさせる日本のお伽噺百話。各地方に伝わる昔話を忠実に再現することにも心を配ったロングセラーの名著の新装版です。




【ペローの昔ばなし】
天才画家ギュスターヴ・ドレの沢山の精緻な版画の挿絵が付いた贅沢な寓話集。小さな赤づきんと大きな狼が並んだ緻密な絵の迫力、リアリティーが私には圧巻でした。

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クリスマスをどう過ごすか

クリスマスが近いのですが、私は、クリスマスになると思い出すのは「マッチ売りの少女」「フランダースの犬」「クリスマス・キャロル」といった、暗く、陰鬱な雰囲気のある3つのお話です。

ところで、クリスマスである12月25日が、イエス・キリストが馬屋で生まれたその日、つまり、イエス・キリストの誕生日だと思っている人も多いと思いますが、イエスの誕生日は実は不明です。
12月25日というのは、イラン神話の太陽神ミトラスの最大の祝日です。寒い冬がそろそろ明け、輝く太陽が復活することを祝う日というものです。この日をイエス・キリストの誕生日であるとしたのは、6世紀頃の話で、ローマのカトリック教会によって決められたと言われています。
また、イエスが紀元元年生まれというのも間違いで、実はその数年前に生まれています。これは、学者が計算違いをしたのですが、気付いた時には、いまさら訂正することも出来なかったという訳です。

とはいえ、12月25日はイエスの聖なる誕生日として長く一貫して祝われてきたのであり、それはそれで素直に受け取ってお祝いすれば良いのだと思います。
大切なのは、どんな祝い方をするかです。
イエスは、神殿で商売をしている人達を怒って追い出したことがあるそうです。ただし、別に商売が悪いと言った訳ではないと思います。
しかし、お祈りとは、本当は、自分の心を神の心に同調させることです。決して、個人の願い事の成就を祈願することではありません。そして、神殿は、神の心と同調するために、神の心に従うという気持ちを起こさせるのに必要な雰囲気を作る重要な場所です。それを利益という欲望を満たす道具にすることを怒ったのだと思います。
ただ、ジョージ・アダムスキーによると、イエスは、この時の激情に駆られた行いを反省したということです。イエスにすら失敗はあり、その後、イエスは祈りによって神の心に従うことを改めて決心したようです。
では、イエスの心を考えるなら、クリスマス・セールなどとんでもない話であると思われてなりません。
私は、気取る気も何も全くありませんが、クリスマスは、普段よりも質素な、敢えていえば、貧しい食事をし、そして、別に苦行をする必要もないですが、個人の心や身体を楽しませることだけは避け、できれば、宇宙の英知に意識を合わせて静かに過ごすことが自然と思います。
ところが、世の人々、特に、エコノミックアニマルである日本人は、もう昔から、これと正反対のことをしてきたのですね。

立川恵さんの、アニメにもなった漫画「怪盗セイント・テール」の、連載終了後の番外編ですが、クリスマスのお話があります。ヒロインの芽美(めいみ)の親友の聖良(せいら)は、芽美達のクリスマス・パーティーの誘いを断わります。聖良は、聡明で美しい少女なのですが、14歳になるその時まで、クリスマス・プレゼントをもらったことは、ただの一度もありませんでした。実は、聖良の家は敬虔なクリスチャン(キリスト教徒)で、クリスマスはボランティアをして過ごすのが普通になっていました。
まあ、我々凡人がそこまですることもないかもしれませんが、せめて、私は、その日の食事は普段よりも質素にして、個人の心よりも至高の英知を上位に置くべきであることを思い出す日にしたいとは思います。最初にあげた3つのお話は、それを思い出すのにも良いものだと思います。




【怪盗セイントテール(7)】
本文でご紹介したものを含んだ、怪盗セイント・テールの番外編3作と、立川先生の初期の感動的な2作の短編を収録。
アニメにもなかったセイント・テール誕生秘話が面白い。私は、これを読み、英国映画「フェアリー・テイル」で、伝説の魔術師フーディーニが言った「マジシャンてのは、死んでも種は明かさないんだ」という言葉を思い出しました。




【マッチ売りの少女―アンデルセン童話集 3】
1967年出版のロングセラー。「マッチ売りの少女」「みにくいあひるの子」「はだかの王様」「年とったカシワの木のさいごの夢」「雪の女王」等、15作品収録。

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仕事にプライドが必要か

ジャッキー・チェンの父親は、俳優を志すジャッキーにペンキ塗りの技能を修得させたと聞いたことがあります。俳優なんてそうそうなれるものではないので、食べていくために、何か手に職を付けさせたかったのでしょう。
ジャイアント馬場さんが初めてアメリカに行った時も、なかなか試合に出してもらえなかった頃はペンキ塗りをやっていたらしいですが、試合でもらうお金より、よほど多く稼げたと言います。
彼らは、ペンキ塗りを本業とは思っていなかったでしょうし、共に志す道で運良く成功しましたが、もしかしたら、それぞれ、「武道好きのペンキ塗りのおじさん」「東洋から来た巨体のペンキ塗り」になっていたかもしれません。
そうなっていたら、彼らのことですから、さぞや技能を極めた熟練のペンキ塗りになっていたことでしょう。

今はそうではないかもしれませんが、当時は、低いレベルの技能でもペンキ塗りの仕事が多かったのだと思います。
そして、仕事なんていうものは、そういった、ある程度簡単に修得でき、そこそこのお金が稼げるという程度のもので良いのだと思います。
私はコンピュータソフト開発なんて仕事をしており、IT時代ということもあって気取った仕事に見られることもありますが、ジャッキーや馬場さんのペンキ塗りのようなものだと思っています。
いや、そうありたいと思っています。
そんなに嫌でもないけれども、そんなに面白い訳でもない。楽しいという程ではなくても、苦痛で病気になるほどでもない。
それで、なんとか収入を得られれば良しとするのです。
私は、仕事に対する思い入れやプライドなんて、まあ、全くありません。もしそのようなものを持っている人がいるとしたら、全く稼げない芸術家くらいのものだと思います。

企業では、仕事こそ自分そのものであると社員の頭に叩き込む、つまり、そういった思想や信念を社員に持たせようとします。
しかし、そんな風に考える必要はありませんし、また、考えてはいけません。
仕事が自分の存在意義になると、心は蝕まれ、心と一体である身体は病み衰えていきます。いや、むしろ、心の病が身体の症状として現れ、それが警告になることが多くあります。
胃腸の調子が悪かったり、頭痛がしたりから始まり、身体や精神の深刻な障害に発展するかもしれません。
癌にでもなれば大変ですが、ポリープでも現れたら、仕事に対する考え方を改めた方が良いかもしれません。

アインシュタインは物理学を趣味と考えていました。そのため、いかに名声を得ても、自分を重要人物だとは全く考えていませんでした。もし彼が、物理学で大きな成果を得なかったとしても、彼は特に気に病みはしなかったはずです。
彼は、大学を出てからは特許局に勤めていましたが、デスクの大棚を引き出して、そこでこっそりと物理学の研究をしていました。それでも、クビにならないだけの仕事はしたのでしょう。
仕事なんて、そんなもので良いと思います。
たとえそう思っていなくても、ほとんどの人は、仕事に対し、持てる能力の3割も使っていません。多くの人を観察してきた経験からもそう確信しています。
能力のもっと多くを仕事に注ぎ込む人は成功し、高収入を得ます。ただ、その場合は、失うものもかなりあります。
しかし、いずれの道を選ぶかは個人の自由です。
仕事に多くの力を注がないからといって気に病む必要はありません。最初から、「俺は仕事には3割の力しか使わない。ただし、3割は給料の対価としてちゃんと使おう」と決めて堂々とすれば良いのです。
会社の望むような滅私奉公をする必要はありませんし、してもいけません。せっかく神にもらった大切な心身を損なうことの方が罪です。







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魔法の杖が意味するもの

世界のあらゆる場所に、魔法の杖のような、多くは長い棒のような形状の神秘なアイテムの伝説があるのをご存知だろう。
それがなぜか考えたことがあるだろうか?
そこにこそ、我々が無限の力を発揮する鍵があるというのに。

我が国の古事記では、杖ではないが、同じ意味を持つ矛(ほこ。槍より幅の広い刃物のついた武器)が、イザナギ、イザナミに与えられる。イザナギ、イザナミは、それで、まだ柔らかかった地上をかき回し、そのしずくから最初の地(島)が生成する。
旧約聖書では、モーセが杖を持ち、数々の奇跡を起こすが、キリスト教では杖を儀式に用いる。
ケルト神話においても、杖は賢者や魔法使いの持つ非常に重要なものである。
中国では、たとえ老人の姿であっても、脚の補助としての杖を必要としない仙人や導師が杖を持つ。我が国の天狗も杖を持つ場合があるが、空すら飛べる仙人や天狗が杖を持つことに、意識的注意を払った者は天才である。

画家の足立幸子さんが言ったように、漫画家というのは直観や閃きの力が大きく、宇宙の英知に通じていることも多い。
武内直子さんの歴史的で世界的な漫画である「美少女戦士セーラームーン」で、セーラームーンは当然、多様な杖を使ったし、武内さん自ら、セーラームーンと同格に扱ったセーラーサターン(武内さんは、セーラーサターンを「メシア」、セーラームーンを「もう1人のメシア」と述べた)は、サイレンス・グレイブという大鎌を持つ。
魔法の杖に秘められたことの核心を表したのが、「魔法少女リリカルなのは」の映画「魔法少女リリカルなのは The Movie 1st」で、テレビシリーズを含め、この映画も、原作者の都築真紀さんが脚本を書いている。都築さんは自らの原作のアニメ全ての脚本を書くのだ。
小学3年生のなのはが持つ魔法のデバイス(矛に近い形状)であるレイジング・ハートは「私だけでは何もできません。私は乗り物のようなもの。乗り手が必要です」と言う。なのはが、「私は良い乗り手になれるかな?」と尋ねると、レイジング・ハートは「あなたがそれを望み、努力してくれるなら」と答え、なのはは、それを誓う。
また、なのはと同じ歳の魔法少女フェイトは、悲劇的な状況の中で、彼女の魔法デバイス(鎌の形状)であるバルディッシュに、「私達の全てはまだ始まってもいない。お前だって、このまま終わりたくはないよね?」と言うと、傷付いたバルディッシュは力を奮い起こし、短く「イエス・サー」と答える。

神秘の杖、矛、鎌の象徴するものは、宇宙の英知と我々の心をつなぐインターフェース(接触面)、つまり、仲介者だ。
イエス自身は杖を持たなかったが、それは、モーセより先に進むためだ。彼は、自らが神との仲介者であると言い、「パンは私の肉、ワインは私の血」として、我々自らの中に、神との仲介者を持てと教えたのだ。
今日では、我々は宇宙意識との仲介者を潜在意識と呼ぶようになった。潜在意識を通じて、我々は宇宙の無限の力と知恵に繋がっている。
レイジング・ハートが言ったように、潜在意識は乗り物であり、我々は良い乗り手になることを望み、努力すべきである。
潜在意識をきれいにしておくことだ。現在の大半の人々の潜在意識は世間の信念や教義で穢れてしまっていて、宇宙の英知と通じることが出来ない。
アダムスキーは、宇宙の英知に従うことで、我々の心はそれと溶け合い、神に似てくると言ったが、潜在意識がゴミで詰まっていてはどうにもならない。
潜在意識のゴミは、学校、大企業の宣伝、国家の下僕であるマスコミに詰め込まれたものだ。世間の慣習を捨て、潜在意識をきれいにし、宇宙の英知とつながらない限り、我々に平安はなく、不安と恐怖によって破滅するだろう。
潜在意識の掃除の仕方で最も簡単なことは、規則正しい生活をすることだ。寝る時間、起きる時間を一定とし、食事を同じ時間に適切な量食べることだ。
その中でも、重要なコツは食を慎むことだ。決して満腹するまで食べて自分を甘やかさなければ、自らの意思で欲望を支配できるようになる。不要な欲望に力を与えないことこそ、潜在意識をクリアにするための最上の切り札である。
反面教師というのは、分かりやすい教訓となり、都合の良いものだ。
起きる時間、寝る時間が一定せず、下らないことでの夜更かしが多く、食事時間も一定せず、大食し、電車の中など、どこででも食べる・・・そんな人間の愚かで醜い様を見れば、上記に述べたことの正しさは嫌でも解ると思う。







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貴族の特性、武士の特性が引き起こすこと

もし雨を降らせることが出来るなら、何でもできるだろう。
ただし、雨を降らせるのは、あらゆるものが本当に雨を必要とする場合だけだ。
必要とする雨が降らないなら、降らないだけの理由がある。
それを解消することだ。
魔法の原理とはそんなものなのだ。

長い干ばつに苦しむ村に、優れた雨乞い師が招かれた。
雨乞い師はテントを建てると、そこに3日篭った。そして、4日目に雨が降った。
驚いた人々が尋ねた。
「何をしたのですか?」「何もしない」
「なぜこれまで雨が降らなかったのですか?」「村が神の意志に沿っていなかったからだ」
「なぜ雨が降ったのですか?」「私が神の意志に沿ったからだ」

神の意志に沿うとはどういうことだろう?
それを知るには、神を知らねばならないが、我々は神を直接知ることはできない。
しかし、ゴッホを直接知らなくても、ゴッホの絵を見れば彼を知ることは出来る。
なら、神の顕現である大自然を真摯に観察すれば、少しは神が分かるかもしれない。

大自然は完璧な秩序をもって動いている。
そこに完全な法則を見ることができる。
正確さ、調和、そして、果てない繰り返し。
あらゆるものが、どんな小さな1つのものにいたるまで完璧なハーモニーを奏でている。
だからこそ、ゆるぎのない強さ、至高の美があり、生活に疲れた者に旅愁にも似た荘厳さを感じさせるのだ。

ニーチェは、気紛れが貴族の特性と言った。
その通りだ。
貴族は神に従っていない。
日本の武士もいつもそうで、その歴史の終りには世間の範であることを目指したが、所詮は神の意志に沿っておらず、最後まで悲惨だった。
武士の特性とは差別主義でしかなかったのだ。
我々は貴族や武士になってはならない。
神は気紛れでないし、厳格に公平だ。

正確に、意義あることを、決意も熱狂もなく、ただ淡々と繰り返す。丁度、太陽や月がそうであるように。
限りなく公平に与える。太陽の光も、風も、雨も、富者、貧者、善人、悪人を区別せず恩恵を与えるように。
軌道の歪みは、欲望を捨てることで容易に修正される。
なぜなら、身の程を知る慎ましい心は神の心と溶けあい、いつもその声を聞けるからだ。

具体的に言うなら、決まった時間に決まった量の食事をすることだ。
ラマナ・マハルシだって、結局は、最上の修行とは、清らかな食事を適切なだけ食べることと言ったのだ。
自然は何も甘やかさない。満腹するまで食べて自分を甘やかすなら、神の意志に沿っていない。
神は人に自由意志を与えたけれども、それを支配し、神の意志に沿うことで、人は神と似てくるという驚くべき特権が与えられているのだ。







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