ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
コンピューターシステム開発技術者、サイコパスのKayのブログ

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。
[2016/11/21]滅多にはありませんが、あまりにレベルが低いコメントは公開しません。
[2011/06/08]迷惑コメントが多くあったため、やむなく、コメントを承認後公開することとしました。

ガンジーが暴力振るったっていいじゃないか

非暴力、不服従主義を唱えたガンジーが、腕力で誰かを懲らしめていたり、ぺこぺこして誰かに従っていても、別に矛盾はない。
しかし、マスコミというのは、ガンジーが派手にストレートパンチでも放っている写真でも撮れれば、「ガンジー、暴力主義に転向」とかいって大きく報道するものなのだろう。
戦争に賛成するはずもない禅僧が、戦いを迷っている武士に、「がんがん戦いなさい」と言っても、おかしなことではないし、実際にそう言った禅の名僧もいた。

中国の古典「荘子」には、無為の教えが説かれている。しかし、およそ、荘子の中に出てくる、神人、至人(最高の境地に達した人間)は、皆、有能で、よく働く。庖丁(ほうてい)という、名料理人は、見事に牛をさばいて見せるなど、無為どころではない。しかし、何の矛盾もない。
ある聖者が、「世俗の仕事などに関わってはならん」と言いつつ、自らは財務長官の仕事を見事にこなしているかもしれない。

私は、子供の時見た、ある英国のテレビドラマで言われたあるセリフが忘れられない。それは、
「攻撃こそ最大の防御なり。そして、最大の攻撃とは無抵抗なり。つまり、何もしないのが一番強いのさ」
である。真理をついていたから覚えているのだろう。
ちなみに、そのドラマの中で、その言葉を言った者は、無抵抗どころか、素晴らしい攻撃振りだった。だが、別に矛盾を感じなかった。

至道無難という禅僧は、「生きながら死人になりはてて、思いのままになずわざぞよき」と言ったようだ。まあ、「生きたまま死人になっちゃえば、やることはみんな良くなる」といった意味だろう。
岡田虎二郎なんて人は、「自分を地下3万キロメートルに埋葬しちゃった気分でやれよ」と言ったものだ。実際は「身を棺桶の中に投じ、地下千万丈に埋了したる心ありて初めて如上の目的に到達するを得べし」と荘厳に言ったのだけれどもね。

これらは、道元が言った、「仏道とは自己を忘れること」ということなのだろう。
自己を忘れ、つまり、自分というものが無ければ、暴力を振るっているようでも暴力を振るっておらず、作為しているようで無為である。責任感を持って熱心に仕事をしているようで彼は何もしていない。
最大の攻撃をしていても彼は無抵抗である。
自己を忘れていれば、全ては自動的にあるべき方向に進む。それは、一見、悪い方に向かっているように見えるかもしれないが、それも必要なことなのだろう。

およそ、この世の優れた教えは全て、自己を忘れるための教えである。
ただ、忘れるためには、一度、自己を確立しなければならない。
生木のうちは燃えにくいが、成熟し乾燥した木はよく燃える。
まずは、強い個性を育てることだ。そのためには、世俗にまみれるのが唯一の方法と思う。社会で磨いた個性が強烈であるほど、自己を忘れることも容易くなる。
さて、そんな訳で、嫌だけど今日も仕事に行こう。







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弾丸をかわす人

飛んでくる矢を、刀で払うなんて場面を時代劇で見たことが一度はあるかもしれない。
手裏剣みたいな小さいものは、払うのは難しいだろうが、動体視力や反射神経が良ければある程度可能かもしれないし、飛んで来るのが見えていれば、身をかわせる可能性もあるだろう。
しかし、弾丸となると、速さが桁違いで、しかも小さいので、払うことは無理だし、弓矢や手裏剣と違い、発射の動作がほとんどないので、身をかわすのも難しい。
だから、西部劇の、巨悪に刃向かうガンマンのように命を狙われる者が生き続けることは、ほとんど不可能と思う。

しかし、実はそうでもない。
ある種の人間は、どういう訳か生き残るのである。
そこに、ある力が働くのである。
その力が働いたと思われる例として、空手家の大山倍達さんが、銃ではないが、真剣を持った剣の達人と決闘した話を思い出す。大山さんに勝ち目は無かったし、大山さんも死を覚悟したらしい。それで、何がどうなったか、大山さんは憶えていないというが、気がついたら、相手はのびていたという。

この力は誰でも持っているが、使い方を知らない。大山さんのような状況になれば自然に発揮されることもあるが、必ずしもそうではなく、むしろ、普通の人ではほとんど発揮されない。
ただ、これは戦いのための力ではない。それは、生きるための力である。

戦争中、激しい戦況の中を何度も潜りながら、奇跡的に全隊員が無事に生き残ったという部隊の話がある。
合気道家の藤平光一さんも、戦争中、自ら指揮した隊がそうであったという。
日本の戦国時代の武将には、銃弾飛び交う戦場を、「俺には弾は当たらぬ」と悠然と闊歩したという伝説がよくある。

私自身も何度か体験したことがある。
子供の頃、花火をしている場所にいて、何の気なしではあったが、理由もなく、身体を移動させたら、かなり大きな打ち上げ花火が、私がさっきいた場所に飛び込んできた。誰かが、発射を誤ったのだろう。翌日、テレビで、打ち上げ花火が顔に当たって大怪我をした小学生のニュースを見た。
前にも書いたが、小学校の低学年の頃だが、交通量の多い車道に何度も目をつぶって飛び込んだこともある(決して真似しないように)。

子供の頃、見ていたテレビドラマで、「爆発現場に近いほど生き残れる」というセリフを聞き、非常に印象深く憶えていた。
奇妙な言葉だからということもあるが、それが真理であるから忘れなかったのだろう。
その通りだ。爆発現場に近いほど生き残れる。
ただ、そのドラマでは、ある男が、爆発するかもしれない、正体不明の物体の調査に自ら向かう時、傍らにいた者にそう言ったのだった。彼は、高い地位にあったので、自分が行く必要はなかったが、敢えて行ったのだった。
要点は2つだ。1つは、彼は自己を捨てていたことだ。もう1つは、生命の危険があることだ。もし、それが本当に爆発するものなら、彼は直観でそれを感じ、誰も近づけさせなかっただろうし、自分は行こうとしても、なぜか近寄れない状況になるのだ。

「心身医学の父」と呼ばれるドイツの医師ゲオルグ・グロデックの論文に興味深い話がある。戦場で、ある男が、自分の脚を指差し、「ここに弾が当たれば、俺は故郷に帰れるのに」と言った途端、正確にその場所に、飛んできた弾が当たり、彼は望み通り帰還が叶った。彼は、そのまま戦場に居続けたら、銃弾かストレスのためかは分からないが、死んでいたのだろう。グロデックは、それを「エス」というものの力だというが、そう言っても良いし、命の働きと言っても良いと思う。
しかし、グロデックも、グロデックからエスの概念を与えられたフロイトも、それを役立てることができなかったと思う。
C.G.ユングは、エスとは言わなかったと思うが、多少はマシだったかもしれない。彼は、幸い、タオイズム(老荘思想)について知ることが出来たからだ。

黒住宗忠は、心が乱れた時、「天照大神様からいただいた命を傷付けてしまった」と言って反省した。
自己を忘れ、自分の命を神からいただいたものとして大切にすれば、その力は現れる。不当な理由で宗忠に逆恨みし、彼の家に放火しようとした男がいたが、なぜか全く火が付かず、それで何かを悟った男は、宗忠に懺悔したという話がある。宗忠は、江戸末期の人で、記録もかなりはっきりしているが、イエス並のヒーリングや、嵐を鎮めるといった奇跡の他、数多くの不思議を行ったと伝えられている。

ストレスを暴飲暴食や乱痴気騒ぎで解消しようとするなどとんでもないことで、ストレスで命を傷付けている上に、さらに命を損なうだろう。ストレスの元の本当の原因を直視し、それを解決しなければならないのであるが、それは、ごく自然にできることだ。そうすれば、命は力を発揮するだろう。自己を忘れ、勇気を持って問題をまっすぐに受け止めるならである。
ストレスとなるような嫌な出来事、苦しい状況、辛い境遇というのはチャンスなのだ。自己を忘れ、それを観察すれば、命は問題を自動的に解決する。そんな力が確実に我々の中にある。







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最高の教師

私が、肩書きは大学生だが実際はニートだった時、書店でたまたま手にした教育書に「最高の教師は空気のようなものだ」と書かれていたのがずっと忘れられない。
多分、ルドルフ・シュタイナーの本だったと思う。当時私は、シュタイナーのことは全然知らなかった。シュタイナーは、オーストリア帝国(現在のクロアチア)出身の哲学者、神秘思想家で、ゲーテ研究の権威として知られ、また、現代の万能の天才でもあり、芸術、建築、農業、医学などで、現代にも強い影響を与える実績を残している。そして、教育分野では、シュタイナー教育とも呼ばれるシュタイナーの教育論、教育法、教育哲学は、現在でも世界中に信奉者が多くいる。

ところが、英国の著名な作家コリン・ウィルソンが、シュタイナーの評伝の執筆を依頼され、シュタイナーの著作を読み始めたところ、すぐに断りを入れたそうだ(結局、執筆した)。ウィルソン言うところ、シュタイナーの本は、恐ろしく抽象的で、古くなったトーストのようで食えたものでない。まるで信用詐欺にあったようなもので、かつがれているんじゃないかと思わざるをえない・・・という訳だが、私も、シュタイナーの本を読む度に思ったことだ。
道元の「正法眼蔵」を読んでもそう感じるのではないかと思う。だが、こんな話がある。我が国を代表する数学者である岡潔は、さっぱり意味が分からないながら、正法眼蔵を座右の書としていたが、20年ほど経ったある日、一瞬で全て理解できたという。悟りのようなものだろう。

さて、初めに書いたが、「最高の教師とは空気のようなもの」という意味はなかなか分かるものではない。
いかにも、存在感の無い、清浄なだけの教師のように感じるかもしれないが、空気のような教師が体罰を行うこともある。こう言うと、「シュタイナー教育では体罰は禁止されている」と言う人もいるかもしれないが、矛盾は無いのである。
現在は、体罰は厳禁ということになってしまっているが、体罰のない教育なんて成立しないことは、本当は誰でも知っている。しかし、あまりにアホな教師ばかりなので、体罰を認める弊害の方が大き過ぎるということなのだろう。まず、国家の、教員養成の思想や制度が根本的におかしいことは間違いがない。

オールコットの「若草物語」で、末っ子の12歳のエイミーが学校で体罰を受ける話がある。
どんな体罰かというと、手の平を小さな鞭で打つというもので、私はよく憶えていないのだが、エイミーは教師を睨み付けていたかもしれない。
エイミーの母親は学校に抗議し、毅然とした行動を起こしたのだと思う。
だが、場合によっては、母親は体罰を認めたかもしれないと私は思う。体罰が悪いのではなく、悪い体罰だっただけだ。
母親も、「私は必ずしも体罰に否定的ではない」とも言っていたように思う。
「無門関」という禅の公案集の「百丈野狐」という話に、弟子が師に質問し、師が「言ってやるからこっちに来い」と言ったら、いきなり弟子が師の横っ面をぶん殴るというものがある。師は大笑いする。

抗議した母親、師をぶん殴った弟子、空気のような教師の3つが、全て私の中で重なった。
この母親は最上の教師だった。ぶん殴られた師は、「ここにも達磨がいた」と言った。つまり、弟子を最高の教師である達磨と同等に見たのだ。
共に、空気だった。これは、道元言うところの、自己を忘れた者であるということだろう。
この母親は、今のモンスターペアレントとは全く違い、自我が我慢ならんので抗議したというのではない(多少はあったかもしれないが)。弟子は、師が気に入らなくて殴ったのではない。
自我を滅し、自己を忘れると、命の知恵が自在に現れるということだろう。だが、意識ははっきりと覚めていなければならない。意識が蒙昧としていれば、ただの夢遊病だ。
自己を忘れ、命の知恵が現れている教師の体罰は子供の命を膨らませる。だが、握ったままの自己が命の知恵を覆い隠している教師の体罰は、子供の命を損なうのだ。

ところで、記事にも書いた、ウィルソンのシュタイナーの評伝で、ちょっと不思議で面白いことがあったので、私の旧ブログの該当記事のリンクを付けておく。
不思議な出来事が知らせること







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フレッツ光のCMに思う

NTTのフレッツ光のテレビCMを見る度、ぞっとするものを感じる。
井上真央さんが出演している、フレッツ光による、「Wi-Fi」と「インターネットテレビ」のCMである。
ある家族が、高速になったスマートフォン等の通信や、インターネットテレビに驚くと、おじいさんが、「それは念力です」とか「茶柱のせいじゃ」というが、その都度、井上真央さん演じるNTTの社員の様な人が、即座に、「ちがいます。光です」と否定する。
愛らしい井上さんが、おだやかではあっても、虫けらでも見るように冷笑し、また、消えて無くなれと言わんばかりに不機嫌そうにである。
おじいさんや、おじいさんに味方するお父さんの発言を、1つとして見逃さず、絶対的な立場から、彼らの発言を完膚なきまでに叩きのめし、沈黙を要求しているように感じる。
あんなものを見て、異様に思う人もいるのではと言うより、平気で見れる人の感性の方が私には信じられない。
あまり憶えていないが、NTTの、特にフレッツ関連のCMは、ほとんどがそうであるような気がする。

竹村健一さんとひろさちやさんの共著の、「いい加減のすすめ」という古い本だったような気がするが、ガリレオ・ガリレイのことが書かれていた。
私の記憶違いもあると思うが、概ねでこんな内容だったと思う。
日本では、ガリレオは、ぎりぎりまで自分の主張を貫いた英雄的人物のように思われているが、海外のある良識ある学者が、「彼は小児病患者だ」と断じる。自分だけが正しいという態度とは、幼児のものでしかない。
「正しいものは正しい」という態度が必要な場合もあるとは思う。しかし、正しいことが大して重要でない場合もある。
上にあげた本にもあったが、世界には、今でも、地球が丸いとか、地球のような惑星が太陽の周りを回っているということを知らない人は少なくない。ある町では、我々のような科学の一般的知識のある人と、地球は平べったいと思っているような人が一緒に住んでいるのだが、それらの人たちが仲良く暮らしてるのだそうだ。誰かが、「地球は亀の背中のようなものだ」と言っても、地球が丸いと教育された人が、蔑んで「違います」とは言わない。地球=亀の背中説を信じる人達の方も、地球が丸いと言う、自分には信じられないことを言っているとしても、その人達を憎まない。
自説を主張し、さかしらを立てて争うより、ずっと優れた、平和な良い社会ではないだろうか?

スティーヴン・ホーキングの本で、数学者・哲学者・論理学者で、ノーベル文学賞も受賞した英国のバートラント・ラッセルが、一般向けの科学の講義をした時の話が載っている。ラッセル伯爵(彼は貴族である)が、地球や地動説の話をすると、聴衆の中の1人のおばあさんが反論する。「世界は亀の背中の上なのよ」と。ラッセルは、「では、その亀はどこに乗っているのですか?」と尋ねると、おばあさんは、「まあ、若いのにオツムのよろしいこと!でもよくって?亀の下はずーっと亀なのよ」と言い、ラッセルを困らせる。そして、ホーキングは、未来の人たちから見れば、このおばあさんと我々に違いはないだろうと述べる。

スコットランド出身の科学者、著述家、教育家、探検家である、M.マクドナルド.ペインは、チベットで偉大な知恵者である僧に会い、感激しながら、自分がこれまでに学んだことを、その僧に話して聞かせた。僧は、うなずきながら、熱心に聞いていた。だが、ペインが話し終わった時、この大師(高徳の僧)は、「それは、そんなに大切なことじゃないのだよ」と言った。その途端、ペインは悟りを開いた。

言うまでもなく、科学やテクノロジは重要である。このこと自体を否定する人もいるし、それも1つの考え方とは思うが、私は科学、テクノロジの発達自体は良いことであると思う。
しかし、科学やテクノロジよりも、もっと偉大で大切なことがあるのだ。
それは、命や自然の英知といったもので、人によっては、それらを神とか、宇宙意識、あるいは、純粋な愛と言う場合もあるだろうが、我々は、それらが目に見えないからといってないがしろにし、完全に否定しないまでも、科学やテクノロジより低いものとして扱っているのである。いわば、自我を神の上にあるものとしているのだ。
知識や記憶で構築された自我の主張を絶対的なものとする態度が、全ての悲惨の元なのではないだろうか?

そもそも、我々が、地球が丸いことや地動説を知っていると言っても、それは、単に言葉で知っただけの知識であり、自分で確証を持てるように確かめた人がどれくらいいるだろう。ましてや、金星が高温高圧の、濃硫酸の雲に覆われた星であるとかいうのは、単に、そう思わせられているという以上のものでは決してない。

あのCMで、フレッツから派遣された美しきエージェントの女性(井上真央さん)が、「念力です」とか「茶柱のせいじゃ」と言うのに対して、「いいえ、光回線を活用しているためです」と説明するのは当然である。しかし、それでも、念力だと言うなら、真面目に言ってるのか冗談かに限らず、「そうなんですか」「そうかもしれませんね」と言っておけば良い。そんなに大切なことではない。ひょっとしたら、そう言っている彼女が、血液型性格判断を信じていたり、テレビや雑誌の占いに一喜一憂しているかもしれない。
人間、誰でも、少なくとも迷信の10や20は持っている。

「地球は丸く、回転しながら太陽の周りを回っています」
「いいえ、世界はじっとしてる亀の背中の上なのよ」
「そうなんですか。では、亀さんには、なるべくおとなしくしていて欲しいですね」
「そうね。それは私たちの心がけ次第よ。邪な行いが多くなると、亀は時々、身体を揺すって地震を起こすわ」
「なるほど。さすがにお年よりは物知りです。我々は、出来る限り心正しくありたいものですね」
「あなたも、お若いのによく分かっていらっしゃるわ」

今、Amazonを見たら、「ヒマラヤ聖者の生活探求」の続編とも言える、偉大な書「解脱の真理」がなんと在庫されている。今回の記事でご紹介した、M.マクドナルド.ペインの著作である。決して難しい本ではないと思う。むしろ、論理的でやさしい言葉で、大師の教えを述べている。著者が現代科学にも通じた西洋人であることも我々にとって良いことであると思う。







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本当に嫌なら逃げていい

管総理がいつまでも居座るのを見て、外国は日本を馬鹿にしていると同時に喜んでいることだろう。日本相手の外交は百戦百勝だと分かるからだ。アメリカ、中国、ロシアはもちろん、北朝鮮ですら、概ね勝てると確信しているだろう。
なぜなら、日本にはスキーマ(策謀家)がいないことが分かるからだ。
総理を辞めさせるのは、策謀家の仕事だ。ところが、みんなストレートな方法で総理を辞めさせようとするから、総理も反発するが、どう言っても総理の立場は強いので、辞めさせられない。
誰かが、岡田幹事長が総理を説得しないといけないとか言ってたが、そんなことする訳ないじゃない?そんな地味で格好良くないことを。
つまり、みんな目立ちたがりのええかっこしいなのだ。
外国は、次は前原さんが良いと思っているはずだ。一番目立ちたがりのええかっこしいだからね。実は、自民党もそう思っているはずだ。
総理をどうやって辞めさせるかというと、総理が本当に嫌がることをせざるを得ないようにすることだ。例えばの話だが、現代の総理はみんな凡人で、特に今の総理は特別に目立ちたがりのええかっこしいなので、地味で格好悪いことばかりをせざるを得ないようにすればいい。ただし、それをやらせる者は身を捨てる必要がある。かなりの越権行為も必要になるかもしれないからね。それでも、1人が腹を切れば済むことだが、保身しか頭に無い日本の政治家に出来ることじゃないだろう。みんな、言うことだけは格好いいが、それだけなのだ。
世間では、小沢さんあたりが策謀家だと思っている人もいるかもしれないが、あの人は人情家のいい人だ。昔の参謀役のように、裏のあることをやる人じゃない。逆に言うと、外国にとっても、さほど恐い人じゃない。多少、嫌な相手という程度と思う。それでも、日本の国益を守るには、本当は最もマシな人ではないだろうか?我々は、好き嫌いじゃなく、そういうところを見ないといけないのだろう。

政治のことは置いておいて、人間の嫌いには2種類ある。
本当に嫌いなことと、心情、つまり、自我が嫌だと思うことだ。
本当に嫌いなことの中でも、高い所から飛び降りるといった直接命に関わることは別にすると、それは、幼い頃に植えつけられたもの、即ち、幼児期の刷り込みだ。これは、どうやっても変えられない。幼児期に、放埓な親に育てられると、物事をきちんとするのは一生嫌いだし、逆に、厳格な親に育てられると、奔放なことが出来ないのだ。ただ、親が子供に規律正しさを無理強いしただけの場合は、案外、親も本質は乱れているので、子供は猛烈に反発し、度を越して奔放になるのは、上流家庭のお決まりのようなものだ。
自我が感じる嫌いは、習慣に反するということで、これは、自分がどっぷりと浸かっている世間の教義や信念と異なることと言って良い。簡単に言うと、自分が持っている迷信に逆らうことを自我は嫌う。

学校に行くのが嫌いという場合、自我が嫌いというだけなら、不良になるくらいで済むが、本当に嫌いな理由があれば、病気になったり、下手をすれば自殺するだろう。
これが社会人であれば、命が、良い方向を教えてくれるので、ちょっと勇気を出してその方向に行けば、かえって良くなる。これを神の導きとか言うが、自分の命こそが神であるとも言える。
しかし、子供の場合は、いくら本当に嫌でも、行き場が全くない。だから、本当に病気になって、やっと学校から解放されるか、短絡的に死を選ぶ。大人は、それが本当に嫌いなのか、単にわがままなのかを正しく見極めないといけないが、世間では、子供のわがままの嫌いに従い、本当の嫌いは無視するという馬鹿なことが平然と行われているのである。
人間の脳にはね、「生きろ」という指令以外は入っていないのだ。だから、生きるためなら、回りの状況なんていくらでも変えられるのだ。それには、自我の嫌いは忘れることだ。もっと言えば、自我が作っている自己そのものを忘れることだ。後は命が本当にうまくやってくれる。命に従えば良い。それが神に従うということだ。ところで、自我は飽食、美食が大好きだ。しかし、命は粗食、少食を好むのだ。だから、苦難を逃れるには、食を慎めば良い。とりあえず、それだけ言っておこう。

「新世紀エヴァンゲリオン」で、シンジの有名なセリフは「逃げちゃダメだ!」であるが、イメージ世界のミサトは、「本当に嫌なら逃げていいのよ」と言う。
自我の嫌いなことは逃げちゃだめだが、命の嫌いは逃げなくてはならないということである。







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