賢者ぶった人達が、「人生に目的なんかありません」とよく言ったり、本に書いたりしている。
だが、目的がなければ、人間はゆるんでしまう。
また、人間はゆるみたいものだから、「人生に目的はない」という愚かな言葉を受け入れてしまうのである。
人間が自分らしく生きるためには、引き締まっていなければならない。
ゆるんだ人間は他人の人生・・・他人の思惑通りの人生を生きることになる。
それは、不満だらけ、言い訳だらけの寂しい人生だ。
ある、真面目に生きてきたと皆に思われていた老人が、いよいよ命が尽きようとする時、孫に言ったのだ。
「俺のような寂しい生き方をするな」
「寂しい人生」と自分の人生を総括することの、何と言う悲しさか!
彼は、本当の目的を持たず、ゆるんだままで人生を送り、そして、終えてしまったのだ。
母親にとっては、子供を「まともな」人間にすることが目的なはずだが、それを本気で目的にする母親は少ない。
自分の楽しみを優先し、また、見栄で子供にお稽古事をさせ、塾に行かせ、良い学校に入らせようとしても、そんなものは、本気でやっている訳ではなく、自分も子供も、ゆるんでしまうのである。
ファッションモデルでも、サッカー選手でも、プログラマーでも、何でも良いが、本気でそれになりたいなら、1日中、そのことを考えているはずである。
そうでなければ、本気でも何でもない。
本気で目指すことを「志」と言う。
「志」とは、「心指し」であり、心がある方向を目指していることなのだからだ。
志を持っていれば、つまり、何かを本気で目指していれば、心は引き締まり、ゆるむことはない。
人生に、本気になれる目標は必ず必要である。
だが、多くの人は、目標を持っているつもりでも、本気でない。
せいぜいが、「とりあえず」の目的しか持っていない。
部長になることは目標にならないが、社長になることなら、目標になる可能性がある。
部長というのは、単なる呼び名に過ぎないが、社長というのは確固とした存在であるのだからだ。
志になりうる目標とは、確固としたものである。
ニートが経済的に自立することを目指すのは、立派な目標になりうる。
本気でそれを目指すなら、1日中、そのことを考えているはずだ。
そうでないなら、本気ではなく、いつまでもニートのままだ。
ある程度、人生経験を積めば、キリストや仏陀になることが目標になるかもしれない。
しかし、キリストや仏陀になることを目標にしているつもりで、無目的になってしまう危険の方が高いのだ。
宗教にはまっているだけの変な人というのがそれだ。
しかし、もし、キリストや仏陀、あるいは、そういったものになることを1日中考え、片時もゆるまず、引き締まっているなら、誰が何と言おうと、それを目指さなければならない。
それは稀なことではあるのだけれど。
リアルで知っているニートが、ブログに「世の中を変えてやるんだぜい」とか書いていたことがあった。
アホらしいと思って放っていたが、ある時、たまたま10年振りくらいで会ったら、顔はニコニコしているのだが、どこもかもゆるみきって醜悪な肉の塊のような人間になっていた。
ずっと生活保護を受けているらしい。
そんな「寂しい人生」を送ってはならない。
私の職場にいる、まるで駄目男君は、ずっとゆるんでいるので、まるで駄目男のままだ。
彼は、目的がないので、引き締まることがない。
目標を聞けば、「高尚な仕事をすること」と言う。
しかし、そのことについて考えていることは、全くないに決まっている。
そこまでゆるんでしまえば、人間終わりである。
残念ではあるが、まるで駄目男君を救うことは不可能だ。
目標を持つ。
1日中考える。
それで引き締まることだ。
その目標について、1日中考えることが出来ないなら、目標が間違っているのだ。
ニートなら、総理大臣になる目標より先に、常に月15万円を稼ぐことを目標にした方が良く、それであれば、1日中、考えることが出来るだろう。
松本零士さんの漫画で見た覚えがあるが、宇宙のどこかに、宇宙最長編の小説を書き続けている男がいた。
しかし、誰もそれを読むことはなく、本人の自己満足である。
その男は、まさに、ゆるんでいる雰囲気がいっぱいであった。
拳すら握ることはなくなっているに違いない。
改めて言うと、引き締まれば天国、ゆるめば地獄である。
せめて、いつも拳でも握ることだ。少しは締まる。
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だが、目的がなければ、人間はゆるんでしまう。
また、人間はゆるみたいものだから、「人生に目的はない」という愚かな言葉を受け入れてしまうのである。
人間が自分らしく生きるためには、引き締まっていなければならない。
ゆるんだ人間は他人の人生・・・他人の思惑通りの人生を生きることになる。
それは、不満だらけ、言い訳だらけの寂しい人生だ。
ある、真面目に生きてきたと皆に思われていた老人が、いよいよ命が尽きようとする時、孫に言ったのだ。
「俺のような寂しい生き方をするな」
「寂しい人生」と自分の人生を総括することの、何と言う悲しさか!
彼は、本当の目的を持たず、ゆるんだままで人生を送り、そして、終えてしまったのだ。
母親にとっては、子供を「まともな」人間にすることが目的なはずだが、それを本気で目的にする母親は少ない。
自分の楽しみを優先し、また、見栄で子供にお稽古事をさせ、塾に行かせ、良い学校に入らせようとしても、そんなものは、本気でやっている訳ではなく、自分も子供も、ゆるんでしまうのである。
ファッションモデルでも、サッカー選手でも、プログラマーでも、何でも良いが、本気でそれになりたいなら、1日中、そのことを考えているはずである。
そうでなければ、本気でも何でもない。
本気で目指すことを「志」と言う。
「志」とは、「心指し」であり、心がある方向を目指していることなのだからだ。
志を持っていれば、つまり、何かを本気で目指していれば、心は引き締まり、ゆるむことはない。
人生に、本気になれる目標は必ず必要である。
だが、多くの人は、目標を持っているつもりでも、本気でない。
せいぜいが、「とりあえず」の目的しか持っていない。
部長になることは目標にならないが、社長になることなら、目標になる可能性がある。
部長というのは、単なる呼び名に過ぎないが、社長というのは確固とした存在であるのだからだ。
志になりうる目標とは、確固としたものである。
ニートが経済的に自立することを目指すのは、立派な目標になりうる。
本気でそれを目指すなら、1日中、そのことを考えているはずだ。
そうでないなら、本気ではなく、いつまでもニートのままだ。
ある程度、人生経験を積めば、キリストや仏陀になることが目標になるかもしれない。
しかし、キリストや仏陀になることを目標にしているつもりで、無目的になってしまう危険の方が高いのだ。
宗教にはまっているだけの変な人というのがそれだ。
しかし、もし、キリストや仏陀、あるいは、そういったものになることを1日中考え、片時もゆるまず、引き締まっているなら、誰が何と言おうと、それを目指さなければならない。
それは稀なことではあるのだけれど。
リアルで知っているニートが、ブログに「世の中を変えてやるんだぜい」とか書いていたことがあった。
アホらしいと思って放っていたが、ある時、たまたま10年振りくらいで会ったら、顔はニコニコしているのだが、どこもかもゆるみきって醜悪な肉の塊のような人間になっていた。
ずっと生活保護を受けているらしい。
そんな「寂しい人生」を送ってはならない。
私の職場にいる、まるで駄目男君は、ずっとゆるんでいるので、まるで駄目男のままだ。
彼は、目的がないので、引き締まることがない。
目標を聞けば、「高尚な仕事をすること」と言う。
しかし、そのことについて考えていることは、全くないに決まっている。
そこまでゆるんでしまえば、人間終わりである。
残念ではあるが、まるで駄目男君を救うことは不可能だ。
目標を持つ。
1日中考える。
それで引き締まることだ。
その目標について、1日中考えることが出来ないなら、目標が間違っているのだ。
ニートなら、総理大臣になる目標より先に、常に月15万円を稼ぐことを目標にした方が良く、それであれば、1日中、考えることが出来るだろう。
松本零士さんの漫画で見た覚えがあるが、宇宙のどこかに、宇宙最長編の小説を書き続けている男がいた。
しかし、誰もそれを読むことはなく、本人の自己満足である。
その男は、まさに、ゆるんでいる雰囲気がいっぱいであった。
拳すら握ることはなくなっているに違いない。
改めて言うと、引き締まれば天国、ゆるめば地獄である。
せめて、いつも拳でも握ることだ。少しは締まる。
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