ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
コンピューターシステム開発技術者、サイコパスのKayのブログ

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。
[2016/11/21]滅多にはありませんが、あまりにレベルが低いコメントは公開しません。
[2011/06/08]迷惑コメントが多くあったため、やむなく、コメントを承認後公開することとしました。

仕事にプライドが必要か

ジャッキー・チェンの父親は、俳優を志すジャッキーにペンキ塗りの技能を修得させたと聞いたことがあります。俳優なんてそうそうなれるものではないので、食べていくために、何か手に職を付けさせたかったのでしょう。
ジャイアント馬場さんが初めてアメリカに行った時も、なかなか試合に出してもらえなかった頃はペンキ塗りをやっていたらしいですが、試合でもらうお金より、よほど多く稼げたと言います。
彼らは、ペンキ塗りを本業とは思っていなかったでしょうし、共に志す道で運良く成功しましたが、もしかしたら、それぞれ、「武道好きのペンキ塗りのおじさん」「東洋から来た巨体のペンキ塗り」になっていたかもしれません。
そうなっていたら、彼らのことですから、さぞや技能を極めた熟練のペンキ塗りになっていたことでしょう。

今はそうではないかもしれませんが、当時は、低いレベルの技能でもペンキ塗りの仕事が多かったのだと思います。
そして、仕事なんていうものは、そういった、ある程度簡単に修得でき、そこそこのお金が稼げるという程度のもので良いのだと思います。
私はコンピュータソフト開発なんて仕事をしており、IT時代ということもあって気取った仕事に見られることもありますが、ジャッキーや馬場さんのペンキ塗りのようなものだと思っています。
いや、そうありたいと思っています。
そんなに嫌でもないけれども、そんなに面白い訳でもない。楽しいという程ではなくても、苦痛で病気になるほどでもない。
それで、なんとか収入を得られれば良しとするのです。
私は、仕事に対する思い入れやプライドなんて、まあ、全くありません。もしそのようなものを持っている人がいるとしたら、全く稼げない芸術家くらいのものだと思います。

企業では、仕事こそ自分そのものであると社員の頭に叩き込む、つまり、そういった思想や信念を社員に持たせようとします。
しかし、そんな風に考える必要はありませんし、また、考えてはいけません。
仕事が自分の存在意義になると、心は蝕まれ、心と一体である身体は病み衰えていきます。いや、むしろ、心の病が身体の症状として現れ、それが警告になることが多くあります。
胃腸の調子が悪かったり、頭痛がしたりから始まり、身体や精神の深刻な障害に発展するかもしれません。
癌にでもなれば大変ですが、ポリープでも現れたら、仕事に対する考え方を改めた方が良いかもしれません。

アインシュタインは物理学を趣味と考えていました。そのため、いかに名声を得ても、自分を重要人物だとは全く考えていませんでした。もし彼が、物理学で大きな成果を得なかったとしても、彼は特に気に病みはしなかったはずです。
彼は、大学を出てからは特許局に勤めていましたが、デスクの大棚を引き出して、そこでこっそりと物理学の研究をしていました。それでも、クビにならないだけの仕事はしたのでしょう。
仕事なんて、そんなもので良いと思います。
たとえそう思っていなくても、ほとんどの人は、仕事に対し、持てる能力の3割も使っていません。多くの人を観察してきた経験からもそう確信しています。
能力のもっと多くを仕事に注ぎ込む人は成功し、高収入を得ます。ただ、その場合は、失うものもかなりあります。
しかし、いずれの道を選ぶかは個人の自由です。
仕事に多くの力を注がないからといって気に病む必要はありません。最初から、「俺は仕事には3割の力しか使わない。ただし、3割は給料の対価としてちゃんと使おう」と決めて堂々とすれば良いのです。
会社の望むような滅私奉公をする必要はありませんし、してもいけません。せっかく神にもらった大切な心身を損なうことの方が罪です。







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魔法の杖が意味するもの

世界のあらゆる場所に、魔法の杖のような、多くは長い棒のような形状の神秘なアイテムの伝説があるのをご存知だろう。
それがなぜか考えたことがあるだろうか?
そこにこそ、我々が無限の力を発揮する鍵があるというのに。

我が国の古事記では、杖ではないが、同じ意味を持つ矛(ほこ。槍より幅の広い刃物のついた武器)が、イザナギ、イザナミに与えられる。イザナギ、イザナミは、それで、まだ柔らかかった地上をかき回し、そのしずくから最初の地(島)が生成する。
旧約聖書では、モーセが杖を持ち、数々の奇跡を起こすが、キリスト教では杖を儀式に用いる。
ケルト神話においても、杖は賢者や魔法使いの持つ非常に重要なものである。
中国では、たとえ老人の姿であっても、脚の補助としての杖を必要としない仙人や導師が杖を持つ。我が国の天狗も杖を持つ場合があるが、空すら飛べる仙人や天狗が杖を持つことに、意識的注意を払った者は天才である。

画家の足立幸子さんが言ったように、漫画家というのは直観や閃きの力が大きく、宇宙の英知に通じていることも多い。
武内直子さんの歴史的で世界的な漫画である「美少女戦士セーラームーン」で、セーラームーンは当然、多様な杖を使ったし、武内さん自ら、セーラームーンと同格に扱ったセーラーサターン(武内さんは、セーラーサターンを「メシア」、セーラームーンを「もう1人のメシア」と述べた)は、サイレンス・グレイブという大鎌を持つ。
魔法の杖に秘められたことの核心を表したのが、「魔法少女リリカルなのは」の映画「魔法少女リリカルなのは The Movie 1st」で、テレビシリーズを含め、この映画も、原作者の都築真紀さんが脚本を書いている。都築さんは自らの原作のアニメ全ての脚本を書くのだ。
小学3年生のなのはが持つ魔法のデバイス(矛に近い形状)であるレイジング・ハートは「私だけでは何もできません。私は乗り物のようなもの。乗り手が必要です」と言う。なのはが、「私は良い乗り手になれるかな?」と尋ねると、レイジング・ハートは「あなたがそれを望み、努力してくれるなら」と答え、なのはは、それを誓う。
また、なのはと同じ歳の魔法少女フェイトは、悲劇的な状況の中で、彼女の魔法デバイス(鎌の形状)であるバルディッシュに、「私達の全てはまだ始まってもいない。お前だって、このまま終わりたくはないよね?」と言うと、傷付いたバルディッシュは力を奮い起こし、短く「イエス・サー」と答える。

神秘の杖、矛、鎌の象徴するものは、宇宙の英知と我々の心をつなぐインターフェース(接触面)、つまり、仲介者だ。
イエス自身は杖を持たなかったが、それは、モーセより先に進むためだ。彼は、自らが神との仲介者であると言い、「パンは私の肉、ワインは私の血」として、我々自らの中に、神との仲介者を持てと教えたのだ。
今日では、我々は宇宙意識との仲介者を潜在意識と呼ぶようになった。潜在意識を通じて、我々は宇宙の無限の力と知恵に繋がっている。
レイジング・ハートが言ったように、潜在意識は乗り物であり、我々は良い乗り手になることを望み、努力すべきである。
潜在意識をきれいにしておくことだ。現在の大半の人々の潜在意識は世間の信念や教義で穢れてしまっていて、宇宙の英知と通じることが出来ない。
アダムスキーは、宇宙の英知に従うことで、我々の心はそれと溶け合い、神に似てくると言ったが、潜在意識がゴミで詰まっていてはどうにもならない。
潜在意識のゴミは、学校、大企業の宣伝、国家の下僕であるマスコミに詰め込まれたものだ。世間の慣習を捨て、潜在意識をきれいにし、宇宙の英知とつながらない限り、我々に平安はなく、不安と恐怖によって破滅するだろう。
潜在意識の掃除の仕方で最も簡単なことは、規則正しい生活をすることだ。寝る時間、起きる時間を一定とし、食事を同じ時間に適切な量食べることだ。
その中でも、重要なコツは食を慎むことだ。決して満腹するまで食べて自分を甘やかさなければ、自らの意思で欲望を支配できるようになる。不要な欲望に力を与えないことこそ、潜在意識をクリアにするための最上の切り札である。
反面教師というのは、分かりやすい教訓となり、都合の良いものだ。
起きる時間、寝る時間が一定せず、下らないことでの夜更かしが多く、食事時間も一定せず、大食し、電車の中など、どこででも食べる・・・そんな人間の愚かで醜い様を見れば、上記に述べたことの正しさは嫌でも解ると思う。







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貴族の特性、武士の特性が引き起こすこと

もし雨を降らせることが出来るなら、何でもできるだろう。
ただし、雨を降らせるのは、あらゆるものが本当に雨を必要とする場合だけだ。
必要とする雨が降らないなら、降らないだけの理由がある。
それを解消することだ。
魔法の原理とはそんなものなのだ。

長い干ばつに苦しむ村に、優れた雨乞い師が招かれた。
雨乞い師はテントを建てると、そこに3日篭った。そして、4日目に雨が降った。
驚いた人々が尋ねた。
「何をしたのですか?」「何もしない」
「なぜこれまで雨が降らなかったのですか?」「村が神の意志に沿っていなかったからだ」
「なぜ雨が降ったのですか?」「私が神の意志に沿ったからだ」

神の意志に沿うとはどういうことだろう?
それを知るには、神を知らねばならないが、我々は神を直接知ることはできない。
しかし、ゴッホを直接知らなくても、ゴッホの絵を見れば彼を知ることは出来る。
なら、神の顕現である大自然を真摯に観察すれば、少しは神が分かるかもしれない。

大自然は完璧な秩序をもって動いている。
そこに完全な法則を見ることができる。
正確さ、調和、そして、果てない繰り返し。
あらゆるものが、どんな小さな1つのものにいたるまで完璧なハーモニーを奏でている。
だからこそ、ゆるぎのない強さ、至高の美があり、生活に疲れた者に旅愁にも似た荘厳さを感じさせるのだ。

ニーチェは、気紛れが貴族の特性と言った。
その通りだ。
貴族は神に従っていない。
日本の武士もいつもそうで、その歴史の終りには世間の範であることを目指したが、所詮は神の意志に沿っておらず、最後まで悲惨だった。
武士の特性とは差別主義でしかなかったのだ。
我々は貴族や武士になってはならない。
神は気紛れでないし、厳格に公平だ。

正確に、意義あることを、決意も熱狂もなく、ただ淡々と繰り返す。丁度、太陽や月がそうであるように。
限りなく公平に与える。太陽の光も、風も、雨も、富者、貧者、善人、悪人を区別せず恩恵を与えるように。
軌道の歪みは、欲望を捨てることで容易に修正される。
なぜなら、身の程を知る慎ましい心は神の心と溶けあい、いつもその声を聞けるからだ。

具体的に言うなら、決まった時間に決まった量の食事をすることだ。
ラマナ・マハルシだって、結局は、最上の修行とは、清らかな食事を適切なだけ食べることと言ったのだ。
自然は何も甘やかさない。満腹するまで食べて自分を甘やかすなら、神の意志に沿っていない。
神は人に自由意志を与えたけれども、それを支配し、神の意志に沿うことで、人は神と似てくるという驚くべき特権が与えられているのだ。







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病人が多過ぎる

今年の健康診断の結果が出たが、私は一昨年からは毎回、オールAの完全健康体としかならない。
別に、病院で健康診断をしていただく必要もないが、強制的に受けさせられているのである。私が、自分の用事で病院に行くことは他には全くない。
しかし、病人が多い。
家族、親戚、近所の人、学校の同窓生、職場の人など、つまり、知っている人の大半が何らかの身体の不調を抱えており、日頃から病院通いをしている人も少なくない。
むしろ、私のように完全に健康である者が稀なようである。
私と世間の人との重要な違いは食事だけである。世間の人は1日3食で、肉食が中心で満腹するまで食べる場合が多く、菓子類などの間食をするのも普通だ。私は1日1食で夕食だけであるが、肉、魚は食べず、食後でも十分な食欲が残るように食べ、間食も全くしない。
世の中には多くの健康法や健康食品があるが、それらが健康をもたらすことは決して無く、健康かどうかの違いは、食事の量だけで決まる。適切な一定量の食事を決まった時間に食べるようにすれば健康にしかならない。
世間の人は、あまりに食べ過ぎで、しかも、食事の量や食べる時間が一定していないので、健康であるはずがない。
私は食べないが、肉食自体はそう悪いものだと私は思っていない。ただ、肉類は食べ過ぎの原因になる可能性があるし、多く食べれば極めて身体に悪い。食事の量が適切なら、何でも非常に美味しいので、別に肉や魚を食べる必要がない。

今は、病院に行くと、大学病院など公立の病院の場合では特に、予約を入れていても長時間待たされることが多いようだ。
公立病院では業務効率の改善を考える必要がないということもあるのかもしれないが、とにかく病人が多過ぎるのである。いまや健康な人が珍しいほどなのだ。

私自身、長年、重度のアトピー性皮膚炎、心筋梗塞、めまい、だるさに苦しみ、発作を伴うメニエール氏病でしばしば立ち上がることも出来なかったが、食を慎むようになってから、それらの症状は自然にすみやかに消えた。当然、何の医療サポートも必要としなかったし、金がかかるどころか、食費は数分の1になり、医療や薬、あるいは、効果もない高価な健康食品で多額の金を無くすこともない。私の1日の食費は数百円である。これは、決して我慢しているわけではなく、飽食、肉食であった頃と比較にならないくらい食を楽しんでいる。本当に空腹な時に食べる食事はまさに天国の食事であり、自然に心から感謝し、食事の度に歓喜というものを感じるほどである。
「日本人は米」という思い込みも捨て、米を食べなくなってから更に身体が軽くなった。これは、米が悪いというのではなく、日本人だからといっても、必ずしも誰にも米が合う訳ではないということだ。徳川家康や水野南北は、富裕でありながら少食粗食で、米を食べなかった。彼らは当時としては異例の長寿(家康は73歳、南北は75歳まで生きた。当時の平均寿命は30数年と思われる)で、しかも、晩年まで健康だった。

また、世の中には数多くの精神修養法や自己開発法があるが、そのほとんどが単に提供側が儲ける目的のために作られた偽物であるが、稀に良いものもある。しかし、その本当に良いものも、実践し効果を上げるのは絶望的に難しい。私自身、良いと思えるものは、数百冊の本を読み、高額なセミナーに参加し、高価な教材(軽く百万円を超えるものもあった)も購入したが、熱心には取り組んだが、どれも成果はなかった。
しかし、ただ食を慎み出すと、決して他人との比較ではなく、以前の自分が精神的にも肉体的にも恐ろしく低レベルであったことが分かり、更に向上するのを感じている。ただ、そうなると世間と付き合えなくなると思う。世間で成功したいなら、世間的な愚かさも必要なのかもしれない。
おそらく、欲にまにれた現代人が、賢者の優れた教えや、論理的訓練で成果を出すことは極めて難しいだろう。それは私自身が実感した。そんな我々に残された唯一の実践可能なものが食の慎みである。それは簡単で確実である。







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子供の時の感覚が甦る私の運動

私は、毎晩欠かさず身体トレーニングをしているが、私のやり方は、畳1枚の広さがあればそれで十分で、何の道具も必要がなく、家の中で出来るので、時間もお金もかからない。そして、満足すべき成果を得ている。
やることは、腕立て伏せ、スクワット、腹筋運動、背筋運動、スワイソウ等であるが、長く続け、効果を上げるには、やり方も大切だと思う。

まず、腕立て伏せを取り上げる。誰でも知ってるポピュラーなトレーニングであるが、あまり良い印象が無いかもしれない。腕立て伏せのイメージが良くないのは学校などでの経験のためではないかと思うが、私は、これはあまりに素晴らしいので、天が誰かに教えた究極のトレーニングに違いないと思っている。
ただ、多くの人が、腕立て伏せのやり方を「床ぎりぎりまで身体を落とし、身体を上げた時には、腕をしっかり伸ばしきらないといけない」といったのが正しいと思い込んでいるのではないかと思う。
これは、学校で教師に見せるためのやり方で、トレーニングでも何でもない。いわば演技、見世物のやり方だと思う。
体操競技などでも、高得点を出すには、意図的に曲げていない部分は全部、「美しく」伸びきっていなければならないが、あれは非常に身体に悪いのである。
私も、最初の頃は、「しっかり曲げ、しっかり伸ばす」方式で腕立て伏せをやっていたが、自己満足にはなるものの、効果がなく、飽きてきてしまうので困った。
ある時、プロボクサーの方に、「自分達はそんなやり方はしない。心掛けるのは『なるべく速く』だけだ」と言われ、感じるところがあってやってみたら、充実感を感じ、効果も素晴らしかった。
とにかく高速に、形はあまり気にしない。短時間に気力を込めてやる必要がある。逆に言えば、気力が充実する。腹や太腿の筋肉への負担も大きく、それらの部位が震えてくるほどだ。また、心肺への負荷も高く、息切れも起こすが、胸にも力が入るので息がし難い。百数十回も続けると心臓が高鳴り、終わった時には息も絶え絶えとなる始末だ。しかし、短時間に力を出す充実感は爽快であり、やや苦しくても、その気分を味わうため毎日欠かせなくなる。そして、当然ながら心肺機能が高まるのも感じる。少し前に、ノロウイルス感染で倒れた時も、さすがにその日は休んだが、まだ体調の戻らないにも関わらず、翌日はいつもと同じ回数を実施した。
腹筋運動も同様で、やはり、「出来る限り速く」だけを心掛けてやっている(あまりに無茶で極端な高速化までは注意しないのでそのつもりで)。
トレーニングは見世物ではないのだから、動きの大きさや優雅さなどはどうでも良い。超一流のスポーツ選手のトレーニングを見ていると、あらゆる動きの振幅が非常に小さく、動いているのかどうか分からない場合もよくあるのに気付く。
もちろん、あまりに歪んだ姿勢、体勢や、いい加減な動きも戒められるべきで、多少の研究も必要かもしれないが、馬鹿でもない限り、「程々」とか「ものには限度」ということを忘れなければそれで良いと思う。

さすがにスクワット(しゃがんで立つ運動)は、高速でやると飛び跳ねてしまうし、それでは膝を痛めるので、こればかりは軽やかさを心掛けているが、あまり深く曲げないハーフスクワットを、そこそこの速さでやるのが良いかもしれない。そこは自分でいろいろ試して見ると良い。ただ、私は深くしゃがんだ姿勢から静かに伸ばすという方法でやっている。それでバランスを取る時に、全身が適度に鍛えられるからだ。最初は、ふらつくことも多かったが、しばらくすると、動きがぴたっと「決まる」ようになった。

これらの運動と、少食、菜食(青野菜より根菜、果物が主だが)の組み合わせにより、身体の調子が非常によく、とにかく軽く感じるようになった。歩いていたり、階段を昇る時に、まるで身体の重さを感じないことに驚く程である。それは丁度、子供の時の感覚であり、あの無限のエネルギーを取り戻したようである。子供の頃、スキップで移動するのは、まるで、空中に浮かんでいるようなもので、どこまででも行けるような気がしたものだが、まさにあの感じが甦ったのである。
運動も、学校で教わったようなやり方や、宣伝に乗せられてむしろ身体に悪いことを金と手間をかけてやるのではなく、実質重視でやるのが当然良く、私のようなOne Matアスリート(畳1枚の広さで実施できる運動)方式を考えてみてはいかがかと思う。





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