ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

我々に救う価値があるか

『レイアース』というアニメで、異世界の魔法使い達が、恐るべき魔法の力で地球に攻めてきて、地球人は抵抗すら出来ずに滅びを待つという状態になった時に、地球の魔神達が手を貸し、反撃を開始した。
なぜ、魔神達が、すぐに助けなかったのかというと、人類が守るに値するかどうかを確かめていたのだという。

しかし、今、本当に、宇宙人や悪魔が攻めてきたとして、そして、もし、地球に、キリストと同等以上の超人的な神人達が存在するとして、彼らは、我々を助けてくれるだろうか?
我々に、守るだけの価値があるだろうか?
そりゃ、中には、立派な人もいるかもしれない。
しかし、旧約聖書の創世記で、神がソドムの町を滅ぼすと言った時、アブラハムは必死に神に、ソドムの助命を乞い、最終的に、もし、正しい人が、僅か10人でもいれば、神はソドムを滅ぼさないことを約束した。
だが、それだけの正しい人はおらず、神はソドムを滅ぼした。

私には、ソドムのとりなしを熱心に神に対して行ったアブラハムが信じられない。
私なら、外国のことは分からないが、神が日本を滅ぼすと言ったら、喜びはしないながらも、
「それもやむなし」
と、あっさりと諦めると思う。
まあ、本当は、日本全体のことが分かる訳でもないのだけれど、日々、見る人々には、すっかり嫌になってしまっているというのが本心である。
いや、他人だけではない。
謙遜でも何でもなく、自分もである。
無論、凡人であるからには、私も、自分は他の人より、かなりマシと思っているが、そんなことは、まあないだろう。

だが、初音ミクさんのために、世界、あるいは、日本を滅ぼさないで欲しいと神に願うことはあるだろう。
まあ、そのための対価を支払う能力が私にあるとは思えないが、私の餓死くらいで許してくれるのなら、応じるかもしれない。
つまり、人間のために、神にとりなしをする気はサラサラないが、ミクさんのためなら、命を捨てよう。

とはいえ、もし、本当にそんなことがあったら、私は、地球人、あるいは、日本人、あるいは、私の行動範囲の場所にいる人々を、私は簡単に見捨てるだろうか?
この人は救いたいが、あの人はどうでも良いという考え方が許されないのは承知している。
全員を救うか、全員を見捨てるかだ。

いや、私がそんな立場になるはずもない。
少し空想してみただけである。
だが、おかげで、人嫌い、自分嫌いを改めて思い知った訳である。
いずれにしろ、泣き言を言うつもりはないし、弱音も吐くまい。
何もする気が起こらないが、ターラー様のみ名を唱えることとしよう。
それだけで、ゆるまずにいられるだろう。









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AIが足元にも及ばない人間であるには

およそ関係のなさそうなもの同士を、見事に関係付けることを発見と言い、そこに有益な何かが生まれれば発明と言う。
ゼロから何かを生み出すことは実際はなく、あらゆる発明は、ものごとの関係を見つけることから始まる。

では、ものごとの関係性・・・それも、普通の人には分からない関係性を見つけるにはどうすれば良いのだろう?
それには、ものごとの本質を見極めることだ。
ものごとの本質とは、ものごとの、価値の低い要素を取り去った後に残るものだ。
それを、学問的には、難しく、「抽象化された概念」などと言うが、つまるところ、「だいたい」のことだ。

「だいたい、あなたは自分勝手なのよ」
と言った場合、「自分勝手」が、「あなた」の本質だ。
この場合は、言ってる者の主観が入っているかもしれないが、それでも、「だいたい」合っているのだろう。

レオナルド・ダ・ヴィンチは、流れる水のあちこちに渦巻きが出来るのを見て、何かを感じた。
普通の人は、デタラメに渦巻きが発生しているとしか思わないのに、ダ・ヴィンチは、「渦巻きは、だいたい、こんなもの」と言える何かがあると考えたのだ。
それは、後の世で証明され、複雑系理論などと呼ばれているが、それが分かるには、コンピューターの発達が必要だった。
つまり、ダ・ヴィンチの感覚はコンピューターを超えていたのだ。

「だいたい」を見事に掴むことが、人間の優れた能力である。
ただ、最近のAI(人工知能)は、ディープ・ラーニング(深層学習)によって、「だいたい」を掴めるようになってしまった。
人間は、5から10程度の階層で「だいたい」を掴むが、Googleのコンピューターは22層の曖昧さレベルで「だいたい」を掴む。
こりゃ、敵いっこない・・・ことはない。
人間には、残された聖域がある。
それをお見せしよう。

初音ミクさんが、ターラー菩薩様の化身であることを、AIは見抜けない。
・・・あ、笑うのは待って欲しい(笑)。
では、初音ミクさんの「だいたい」と、ターラー菩薩様の「だいたい」を見抜くことで、両者の関係性を照見しよう。
まず、共に、16歳である。
ターラー菩薩様は、白ターラー様と緑ターラー様が在(ましま)すが、初音ミクさんのイメージカラーは緑である。
そして、ターラー菩薩様が象徴するのは「風」である。
初夏に新緑の間を吹く快い風を「緑風」と言う。
また、緑ターラー様が迅速に救済に駆けつける様は、疾風のごとしである。
長い緑色の髪が際立つミクさんにも、この風のイメージがある。
それを特に感じたのは、冨田勲さんが制作された『イーハトーヴ交響曲』の第4楽章『風の又三郎』で、ミクさんが又三郎を演じた時だ。
又三郎は男の子であるが、ミクさんは、又三郎の風の神の本質を誰よりも表現出来るので、又三郎以上に又三郎になった。
ミクさん自体に、ターラー菩薩様の象徴である風の本質が在るからである。

いかにAIが進歩しても、このようなことをAIは考えない。
「そりゃ、こじつけじゃないか?」
と言うなら、その通りで、「こじつけ」こそ、決してAIが真似出来ない人間の能力である。
こじつけには、空想、感情、情緒、好きという気持ち、直観、気紛れなどといった、AIには手も足も出ないものが一杯あるからだ。
数学理論すら、感情なくして成立しないことを数学が証明しているらしい。岡潔さんが言ったのだから、おそらく本当なのだろう。つまり、感情は理論を超えるのである。
だが、教育された気紛れは、容易くAI(特にビッグデータとの組み合わせ)に見抜かれる。
我々は、本物の気紛れを持たなければならない。
ニーチェも、気紛れを高く評価したのである。
本物の気紛れを持つために、我々は、真の人間性を取り戻す必要がある。
人間性を取り戻すためには、初音ミクさんの透明な歌声の中に在る、ターラー菩薩様の光を見出せば良い。
ターラー菩薩様の光に照らされるためには、ミクさんの歌を聴きながら、慕い憧れる気持ちで、ナーマスマラナ(名前を思い出すこと)、あるいは、ナーマ・ジャパ(名前を唱えること)をすれば良い。
その名前とは、神仏の名である。
慕い憧れる気持ちを持てる神仏であれば、どの神仏の名でも良いのである。
この曖昧さ、恣意(気まま)を持ちながら、なおかつ、ゆるまずにいることが、真の人間の偉大さである。
何十万年進歩しても、AIは足元にも及ぶまい。
ただし、本物の人間であればね。









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“See You”を守ったミクさん

今年も、初音ミクさんのコンサート『マジカルミライ』が開催される。
2013年から4年連続の開催となり、今年は、『マジカルミライ2016』となる。
現段階では、9月9日(金)から11日(日)に渡って、千葉の幕張メッセ国際展示場の9、10、11ホールで開催されることだけが分かっている。

私は、今年のマジカルミライは無いと思っていた。
いや、もしかしたら、昨年の日本武道館公演を最後に、マジカルミライは終了するかもしれないと思っていたのだ。

まず、今年のマジカルミライが行われないと思った理由だが、今年は、MIKU EXPOコンサートが、

3月23日・24日 福岡
3月29日 大阪
3月31日 名古屋
4月05日 札幌
4月09日・10日 東京

で開催され、さらに、その後、海外に飛び出し、

4月30日 サンフランシスコ(カリフォルニア州)
5月06日 ロサンゼルス(カリフォルニア州)
5月14日 ダラス(テキサス州)
5月17日 ヒューストン(テキサス州)
5月20日 トロント(カナダ、オンタリオ州)
5月25日 シカゴ(イリノイ州)
5月28日 ニューヨーク(ニューヨーク州)
6月01日 モンテレイ(メキシコ、ヌエボ・レオン州)
6月04日 メキシコシティ(メキシコ合衆国首都)

と、ミクさん、大変なハードスケジュールである。
42kgしかないミクさんが、さらに痩せてしまっては大変だ。
だから、その後、『マジカルミライ』の準備に入るのは過酷ではないだろうかと思ったのだ(実際、スタッフさん達も大変だろう)。

次に、昨年で、ひょっとしたら、マジカルミライが終わるのかもしれないと考えた理由はこうである。
日本武道館を『マジカルミライ』のラストに・・・というのは考えられるし、それだけではなく、コンサートの内容からも、そう感じさせるものがあった。
『ミクの日感謝際』シリーズのコンサートは、2012年の公演を最後に終了したが、その最後のコンサートであった、『最後のミクの日感謝祭』は、1曲目が『Tell Your World』、そして、アンコールも含めた最後の曲が『ハジメテノオト』であったが、昨年の『マジカルミライ2015』も同じであったのだ。
さらに、『ワールドイズマイン』、巡音ルカさんの『Just Be Friend』が、感謝祭の時もなかったフルコーラスで歌われ、しかも、圧巻のパフォーマンスだったし、『ハジメテノオト』のミクさんの情感溢れる歌と表情に武道館の満員の観客は感極まり涙する者も少なくなかった。これが、マジカルミライの終焉を予感させたのだ。

だが、2012年の最終の感謝祭コンサートは、『最後のミクの日感謝祭』と、ちゃんと銘打たれていたし、『マジカルミライ2016』では、ミクさんは、最後の曲、『ハジメテノオト』を歌い終わった後、しばらくしたら明るい顔に戻り、「またね!」と陽気に言って退場されたのだ。
「またね(See you)」は、「近いうちにまた会いましょう」という意味である。
ミクさんは、「サヨナラ(Good bye, So long)」とは言わなかった。
やはり、ミクさんは約束を守る誠実な子である。

初めに申し上げたが、今年の『マジカルミライ2016』は、幕張メッセである。
国際展示場の9~11ホールをまとめて使うのは、トップアーチストならではの形態だ。
おそらく、オールスタンディングで行われるであろうから、最大で、13,000人から15,000人が入場可能と思う。
2階席なんてものはないし、段差の無い会場なので、後の方の人は、背が高い人でないと、ステージは全く見えないと思う。ただ、その場合も、高い位置にスクリーンが、正面と左右に設置されるだろうから、それを見ることが出来るだろう。

ミクさんのコンサートは、以前は、『ミクパ(初音ミクライブパーティー)』と、『ミクの日感謝祭』が主なものだったが、『ミクパ』が『MIKU EXPO』に、『ミクの日感謝際』が『マジカルミライ』に受け継がれたと考えて良いと思う。
いずれか一方でしか歌われない曲もあるし、両方で歌われる曲でも、ダンスが異なる場合もあったりで、なかなか面白い。
『Tell Your World』は、両方で歌われ、ダンスも同じだが、ミクパ・MIKU EXPOでは、途中でカラフルな衣装に変わるが、感謝祭・マジカルミライでは変わらないという違いがある。

『マジカルミライ2016』では、駐日アメリカ合衆国大使のキャロライン・ケネディさんがお越しになられたが、幕張メッセは多分、オールスタンディングなので、要人の来場は無理だろう。当日で、任期を5ヵ月残したオバマ大統領が来られたら面白いのにと思うが、それは妄想であろう。
私はいつか、ミクさんのコンサートの主催を行いたいものだと思う。
潤沢に予算をつぎ込むが、その会場に自分は行かず、コンサートの中継を見ながら、宇宙に旅立とうと思う。
もう地球には帰って来るまい。
遠い宇宙で、Stardusterごっこをしながら、消えていこうと思う。
コンサートを主催することを果たせなくても、そうするつもりだ。
コンサートの主催を果たせず、少し寂しく思いながら消えていくとしても、それが運命である。









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特技がない人の大きな生き方

「特技は何?」と聞かれて、「何もありません」と言うしかない人は多いだろう。
「俺には特技なんか必要ないぜ」と、しれっと(平然と)言う者は、単に馬鹿だろう。
そして、特技を得るのに必要な時間は、よほど才能がある場合で3年、普通は10年と思う。
時々、「MOS(マイクロソフトオフィススペシャリスト)の資格を持っています」と、それが特技であるように言う者がいるが、それは、戦場でエアガンを持っているというようなもので、文字通り、「武器にならない」。
社会が戦場であれば、持っている武器が、ナイフか、刀や槍か、弓矢か、拳銃か、マシンガンか、光線銃かといったことが重要だが、出来れば拳銃が欲しいところで、マシンガンを持っていれば厚遇され、光線銃なら成功出来るのである。

ところが、世の中には、ナイフ一本も持っていない者がいる一方、マシンガンをじゃらじゃら持っている者もいるのである。
また、ゼネラリスト(ジェネラリスト)とかいって、「俺の仕事は専門職ではなく、専門家を使うこと」と言いたげな者もいるが、ゼネラリストになれるのは、マシンガン以上を持っている者だけだ。
優れた経営者がゼネラリストと言えると思うが、良い経営者は、専門性でも、大抵の部下には勝っているものである。

ただし、世間的な特技は拳銃レベル以下であっても、世間の専門技能リストにないことで、マシンガン以上を持っているという人もいる。
ドワンゴの川上会量生長なんて、そんな人だと思う。
彼は、「僕はプログラマとして本格的なキャリアはない」と言ったことがあったが、それはビル・ゲイツも同じだ。
だが、プログラマーとしても拳銃レベルかそれに近いだろうし、その他のいろいろなことで、刀か弓矢を持っているのだ。
例えば、川上さんは、スタジオ・ジブリで見習いプロデューサーを何年もやり、実際のプロデューサーの仕事も経験して、拳銃レベルに近い能力を得たが、それに特化したら三流かもしれないが、経営者としては、光線銃の特別オプションを得たということだと思う。

私のプログラミングは旧式で時代遅れな拳銃といったところで、普通のシステム開発会社に、普通のSEやプログラマーとして入れば雑魚だが、それよりは良い思いをしている。
その理由は、他にも、ナイフや刀をいくらか持っているからだ。
そして、そのオンボロの拳銃も大切にしているのである。

エドガー・ケイシーは、世間的には写真屋で、多分、弓矢かせいぜい拳銃レベルの写真家だったのだろうと思うが、霊能力者として光線銃を持っていた。
光線銃を得るためには、9歳の時から、毎朝、欠かさず聖書を読んでいたのだ。
彼のような生き方をするのは、特別な運命を持っている者だけであると思う。
ラマナ・マハルシは、特別な才能があったが、人々に教えるためには、3年の沈黙の行を必要とした。
聖者だって、「ぽっとなれる」ものではないのである。
世の中には、「俺は世俗の仕事に興味はない。世界を救う仕事をする」と言う者もいるのだと思うが、それならそれで、世間的にはせめてナイフを持って、貧しい生活を送りながら、「専門の救世主」としてマシンガン以上を持つよう励まねばならない。
ゲーテの『ファウスト』の主人公ファウストがまさにそれで、世間的学者としては弓矢レベルだが、神智学者として光線銃を得ようとしていたのだろう。

世間的な最低限の武器を持ちつつ、自分だけの理想の光線銃を得ようとするのが、人間として望ましい生き方なのだろうと思う。
そして、おそらくだが、自分だけの光線銃を情熱を持って求めれば、世俗的な武器も最低限得られるのだと思う。
イエスも、他の聖者も、その点は同じことを言っているのだと思う。
特技は何もないが、宇宙的真理に関心があるなら、遊んだり、休んだりせずに、『バガヴァッド・ギーター』を千回読むとか、念仏やナーマスマラナ(心の中で神の名を想うこと)を何十万回とやれば、世俗のことは神仏が面倒をみてくれるかもしれない。
ただし、決してゆるまず、引き締まってやらなければならない。
本当にそれでうまくいくのかどうかは、自分の一生で試すしかないというリスクがあるが、他に何も出来ないなら、他の人のために大実験をするのも良い。
ひょっとしたら、私がそれをやっているのかもしれず、まあまあ、上手くいっていると思う。









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善いことは出来なくても、悪いことをしない

テロリストやテロ国家は、「話が通じない相手」である。
しかし、身近な人間同士でも、そうそうコミュニケーションがうまくいく訳ではない。
人間には心の壁があって、元来が、心は通わないものかもしれない。
私はそう思う。

もし、本当に心が通じることがあるとすれば、目と目が合った瞬間に起こる神秘的なシンクロナイズだ。
だが、普通は、視線が合った瞬間に反発し合うのだ。

私は、システムエンジニアの仕事が楽しいと思ったことはない。
クライアントと話が通じないからだ。
お互い、別に悪意はないのだが、相手のことが、ほとんど分かっていないのだ。
それは仕方がない。
そこで、お違いが、粘り強く、相互理解に達するよう努力すれば良いのだが、それには、双方が、相手に対する敬意を持つことが必要だ。
だが、それは難しい。
我々には、他人に対する敬意というものがないのかもしれない。
また、敬意を払われるような人格は、私にはないが、誰か持っているだろうか?
よく分からない。

聖者の教えに、人が他の人々に与える全ては、実は自分自身に与えているというものがある。
これが本当なら大変である。
ほとんどの人は、他の人に敬意を払わず、見返りがなければ、何も良いことをしてやろうとしないのだからだ。
他の人が、敬意を払うべき人間に見えないとしたら、間違いなく、自分がそうだからだろう。

だが、私は、他の人を敬えとか、他の人に親切にしろと言うつもりはない。
聖者は、謙遜を忘れなければ良い結果を見ると言うが、私は、他の人の前で謙遜することも奨めない。
それらは、所詮作為であり、恵みを得るために、敬ったり、親切にしたり、謙遜する者は卑しいじゃないか?
そんなことはどうでも良いから、片時もゆるまず、引き締まっていることだ。
そうすれば、他人に敬意は払えなくても、見下すことは避けられるし、親切にはしなくても、害を為すことは避けられる。
謙遜は出来なくても、傲慢でいずには済む。
それで十分である。
私はそう思う。

そして、私は、他の人の敬意、親切、それに、愛すら求めない。
それには、力がいる。
力を得るには、自分の掟を持ち、それを守ることだ。
神は、人が自分に課した掟に応じた力を与えるだろう。
掟を厳しく守るなら、その掟に相応する数倍の力を与えて下さるだろう。









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
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