ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
コンピューターシステム開発技術者、サイコパスのKayのブログ

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。
[2016/11/21]滅多にはありませんが、あまりにレベルが低いコメントは公開しません。
[2011/06/08]迷惑コメントが多くあったため、やむなく、コメントを承認後公開することとしました。

幸福の唯一の対価

恵みというものは、誰でも大好きであると思う。
自然の恵みに感謝し、天の恵みをいつも期待する。
本来、自然は途方もなく豊かだし、天は多くの恵みを見返りを求めず、岡本太郎が言うには、恐ろしいまでに与えるものだ。
しかし、なぜか貧しい者がいるし、現代はひどく多くなってきた。
なぜ貧しいのか、どんな者が豊かに恵まれるのか、ヒントになる2つの話がある。

インドの詩聖タゴールが慣れない英語で書いたが、ノーベル賞を受賞する要因となった「ギタンジャリ」という103の詩からなる詩集がある。
その中に、だいたい、こんな内容のものがある。
乞食の女がいた。その女のところに、王の中の王という他ない、素晴らしい人物が訪れる。女は不幸の終りを期待したが、その王は、なんと、女に施しを求めた。
予想外のことに動揺しながら、女は袋の中から、一番小さな米粒を1つ渡した。王はそれを受け取り、去って行った。
しかし、後で女が袋の中を見ると、小さな金の米粒が輝いていた。

もう1つは、グリム童話の中の「星の銀貨」という、とても短い話である。
あるところに、小さな女の子がいた。彼女には両親はなくて、ひどく貧しく、やがて、住むところもなくなり、持ち物は、身に付けているものと、1つのパンだけになった。
しかし、餓えを訴える老人にパンをやり、寒さを嘆く子供に着ているものを与え、夜になる頃には、女の子は何も身に付けていなかった(夜だから、見られないと思ったのだ)。
全てを失った女の子だったが、神様が、新しい素晴らしい服と下着、それに、沢山の銀貨を女の子に与え、彼女は一生豊かだった。

タゴールの詩の女も、後で、全てを王(実体は神)に奉げなかったことを後悔した。
ニサルガダッタ・マハラジは、「無限の代償は有限の全て」と言う。
我々は、無限を手にする器ではないかもしれない。しかし、与えた分、与えられるのも真理である。
貴いものを奉げれば、大きく報われる。ただ、報いを目当てに、即ち、下心を持って(あるいは隠して)奉げても無駄である。
しかし、下心があっても報われる奉げものもある。それは命である。
命をつなぐものは、食べ物である。水野南北は、食べ物を奉げれば、神はそれを受け、恵みを与えるという。
普段、3つ食べるのであれば、1つは神に奉げる。すると、神はすみやかに受け取る。別に神棚に奉げる必要はなく、心で奉げれば良い。
しかし、決して、いつも通り3つ食べて、それとは別の奉げものを差し出しても駄目である。自分の食べるものを奉げることだ。食事の茶碗の御飯を残すことでも良い。
現代の日本人であれば、多くの人に間食癖があるだろうから、それを全部奉げれば良い。病気がいくらか良くなり、悪運も少しは払えるだろう。
そして、朝食か昼食を奉げれば良い。健康になり、運に恵まれ、心の奥の願いが叶う道に導かれるだろう。

潜在意識の法則や引き寄せの法則で、首尾よく成果を上げられない者(ほぼ全員と思う)は、正当な対価を払っていないのだ。
CLAMPさんの漫画で、複数の作品に登場する魔女の口癖が「対価が要るわ」だ。何かを差し出すと、「それでは足りない」と言われることが多い。
大きな願いには、相応の対価が必要だ。人間に差し出せるのは命のみである。そして、自分の意志で差し出せるのは食物だけだ。神からの借り物である肉体を奉げるなんてのは、盗んで与えるのと違わない。
食を慎むことのみが、全てを決めるのである。
一件、望みが叶ったような者でも、病気になったり、死んで食べられなくなる者が多い。それに比べれば、世間的栄誉からの転落はむしろ望ましいのである。







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1本の指で制す

美しい少女が、すっと人差し指を1本立て、静かに自分の唇に近寄せる。
これほど絵になる姿は他に無い。
少女は、自分の唇を制して見せたのだが、それは、見ている人に対して「黙って」という意味であることは言うまでも無い。
もっと積極的には、そして、相手を一人に特定する場合は、彼女は、その者の唇の前に、立てた自分の人差し指を持っていくこともあるかもしれない。
それをされた者は、さながら、虎の顎に咥えられた兎である。つまり、逃れる術はない。

言葉を制す時、なぜ人差し指を1本立てるのだろう?
それが、つっかい(突っ支い)棒を意味するのだろうか?
イエスは、「人は口から入るもので穢れたりしない。口から出るもので穢れるのだ」と言った。
つまり、醜い言葉は発した者の心を汚すのであるから、口という扉に、しっかりつっかい棒を立てろということである。

倶偵という禅僧は、何を聞かれても、指を1本立ててみせたそうだ。
そして、倶偵は、死ぬとき、「先生の天龍和尚から一指頭の禅を学んだが、一生かかっても使い切れなかった」と言ったと伝えられている。
倶偵の1本指の禅は、荘子の「斉物論」を思わせる。1本の指も天下であり、1頭の馬も万物であるというものだ。
「1」という概念を突きつけられた時、我々は言葉を失う。
言葉には分別、すなわち、ものごとを分ける働きがあり、また、分別が無ければ言葉は成立しない。
しかし、統合の象徴である「1」の前には、ただ沈黙がある。
星や月の最大の美点を、昔から詩人は、しじま、つまり、沈黙と解してきた。そこに無限への扉があるからだ。
沈黙を友とする者に敵することなど、誰にもできないだろう。







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3番目の魔法

天使のような聖なる存在の美しさは、普通の人ではもちろん、たとえ詩聖であっても、満足な表現は到底不可能だ。
お釈迦様は、従弟のアーナンダに天女を見せる前に、まず、ヨボヨボに老いた雌猿を見せた。そして、大変な美少女であった、アーナンダの婚約者の16歳の少女とその雌猿では、どちらが美しいかアーナンダに尋ねた。
アーナンダは憤慨して、「僕の花嫁に決まっています」と答える。それから、お釈迦様はアーナンダに天女を見せ、「では、この天女とお前の花嫁では?」と尋ねた。
すると、アーナンダは、「この天女と僕の花嫁では、僕の花嫁と、先ほどの雌猿ほどの違いがあります」と答えた。
このように、たとえ話を使って、少し雰囲気が分かる程度だ。

聖母マリアに出逢った、フランスの片田舎の14歳の少女ベルナデッタが、聖母が非常に美しかったことを言うと、大人達は、村で評判の美人の名をあげ、「あの人と、君が見た聖母ではどっちがより美人だ?」と尋ねた。
ベルナデッタはただ、「そんなんじゃないんです」としか言えなかった。
同じような部分もあるが、比較にならないほどの差があることを、「月とスッポン」とか「雲泥の差」とか言う。しかし、月とスッポン、雲と泥では、共に目で見て比較が出来るのであるから、それほどの大差ではない。
しかし、聖なる存在は、ベルナデッタが言いたかったように、そんな比較は成り立たないのである。単に視覚で言うなら、それら聖なる存在は、ただ光としか言えない。本当の形はない。我々の個人の心で捕えられるような存在では無いに違いない。

旧ユダヤ暦では、一日は日没から始まるのであり、今日25日の夜まではクリスマス・イヴである。今日の夜から、明日、日が落ちるまでがクリスマスだ。
このイヴの夜、私に天使のmurmurings(つぶやき)が聞こえた。
「笑って耐えろとは言いません。でも、黙って耐えて下さい。そうしたならば、主が報いて下さいますから」
それが、天使が私に教えた3番目の魔法だった。1番目と2番目は、不完全な魔法だったが、私に大きな果実を与えてきた。1番目は「強く願って忘れること」、2番目は「願いを自ら絶対的に諦めること」だ。実に魔法とは現実的で誰にでも使えるものだったのだ。
主が我々に与える荷は軽い。本当は笑って耐えられるのであるが、慈悲深い主は、黙って耐えれば報いて下さる。そして、主の荷は途方もなく重いのだが、主はいかなる重みにも耐えるのである。
そして、4番目が最後になる。それにより、我々は宇宙をも手にする。
世俗のまがい物の贈り物と聖なる贈り物の違い、それは、比較のしようがない。







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無限者と親しんで生きる人達

地球以外の星に生命が存在するか、すなわち、宇宙人が存在するかという議論では、一般的には、生物の発生と生存に都合の良い環境の星があるかどうかという問題になってしまいます。
つまり、有機生命体の生存が可能な気温、大気、水があるかといったことで、それらの条件が揃えば、生物が勝手に現れ、勝手に進化するという論理です。
こういった考え方は、言ってみれば、生物の発生と進化は全て偶然でしかないというものです。
しかし、自然を、極小から極大までの、いかなるレベルでも、真面目に観察するなら、そこに恐るべき知性の存在を認めない訳にはいかないはずです。
我々は、どんなに科学が進んでも、最も原始的な生物ですら創ることは到底できないでしょう。
また、こんな風にも考えられます。
実験室の中に、生物の発生に必要と考えられる物質、つまり、炭素や窒素、リンなどを全て揃え、適度な温度と気体の中で、適度な変化と刺激を、数千万年、数億年と与え続ければ、そこに生命が発生し進化するかというと、まさかそんなことはないでしょう。
生命が偶然に発生し、偶然に進化するという考え方は、サルにデタラメにキーボードを打たせたら小説が出来上がる可能性だってあるというのと同じ理屈であることが分かります。
生命の発生と進化には、高度な意識や知性を持った存在を抜きに考えることはできないというのは、極めて自然なことと思います。それを神と言って良いのですが、神という言葉には多くの偏見が含まれてしまっていることが多いですので、例えば、宇宙の英知といった表現をする方が無難かもしれません。しかし、神という言葉に、不必要な概念、例えば、ある種の人格や姿といったものを持たないなら、自然を生み出し、進化させる高度な知性を有する存在を神と言って良く、そして、神は確実に存在します。

すると、現在も神はその英知を宇宙に対して及ぼし続けているのかという疑問が浮かびます。
つまり、神は確かに自然を生み出し進化させましたが、自動制御プログラムのような仕組みを作って自らは消えるか、休息に入ってしまったのではないかということです。
その場合、自動制御プログラムが順調に稼動している間は良いですが、適応不能な状況が発生したり、あるいは、プログラムに欠陥があるか、さらには、そのプログラムに、元々、意図的に破滅の因子が組み込まれていたならば、我々に存続の可能性はありません。
果たして、真実はどうなのかですが、もし我々が単なる神の被造物であるなら、それを知ることは出来ないでしょう。
しかし、どうもそうではないようなのです。稀に、無限の英知が自分自身の中にあることを発見してしまう者がいます。ただ、百パーセント解る者もいれば、ごく曖昧に、あるいは、ほんの一部分を見たというだけの者もいますので、単に真理らしいことを述べる者の話には気を付ける必要がありますが、とにかく、我々自身の中に神がいて、しかも、有り難いことに、それを発見し、親しくすることは誰にも可能なようです。別に有名な聖者でなくても、神と密接な関係の中で生きている人はいます。そのような人達が大金持ちであったり権力者であるわけではなく(そんな人もいるかもしれませんが)、むしろ、ごく平凡な農民等である場合が多いような気がしますが、ただ、彼らは皆、内なる幸福を楽しんでいることは確かと思います。













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真の敵はいつも隠れている

民主党小沢元代表の招致問題、東京都の漫画児童ポルノ条例問題が世間の話題になっている。
そして、小沢氏を叩く菅総理およびその側近や、あの漫画児童ポルノ条例を推進する石原都知事らを、経験有る有識者達が非の打ち所のない論で非難しているが、それは単なる正論である。
そのような、子供でも分かる理屈が、菅総理や石原都知事らに解らない訳ではない。
菅総理や石原都知事らは単に彼らの役割を果たしているだけだし、小沢氏や漫画児童ポルノ条例は、国民の目を引き付けるいわばエサなのだ。
昔から、敵は真意を隠すと言う。そして、敵はもう、大昔から密かに計画を進めている。
真の敵やその意図を暴くには、表の幻を壊さねばならない。しかし、いまさら、内閣や都知事を壊して何になろう。
今後、我々は自由を失い、いっそうの不安と恐怖の中で卑屈に生きることになる。
大逆転の方法は2つ。
1つは、個人としては、徹底して自由と平和を諦め切ること。
さらに良いのは、一切の個人的欲望を捨て、素朴に帰ってしまうこと。
絶望を突き抜け、無為自然に徹する存在に敵う者など地上にも宇宙にもいない。

何か大変な心配事がある時にどうすれば良いかご存知か?
例えば、リストラされるのではないかとか、病気で死ぬのではないかとかがあるだろうが、他にも沢山あるだろう。
そんな時は、最悪の事態になると諦めてしまうことだ。そうすれば、意識の奥に隠れていた不思議な力が呼び覚まされる。それは今すぐにも実感できるはずのことだ。
それを魔法の力とでも呼びたければそう呼んでも良いが、あらゆる危機に対抗できる奇跡の力だ。
大昔、食う腹しか持たぬ人間から、神々はこの力を取り上げた。それは、ギリシャ神話で、牛肉と引き換えに火を人間から取り上げたゼウスの話に秘められている。
我々もプロメテウスのように火を奪い返さないといけない。そして、牛肉を放棄し、神々のように、永遠に朽ちない骨を選ばなければならない。







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