ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

デクノボーになる

イタリア映画『愛のほほえみ』(1974)を、私はあまりまともに観ていないが、こんな1シーンだけを印象的に憶えている。
富裕な家庭の8歳の少年ルーカが、同い年くらいの少女オルガに出会う場面だと思う。
タバコを粋(いき)に持ったオルガが、ルーカに「火をお持ちでありませんこと?」と堂々尋ねる。
唖然とするルーカに、オルガが言う。
「あたし、やっちゃいけないって言われることは全部したいの」
私は、言葉ではなく、感覚的に、「良い心掛けだ」と思ったものだった。
これはもちろん、普通の大人や良い子が、盲目的に信じ、ひれ伏している権威や、世間の教義・信条は全部疑うという姿勢の象徴である。
インドの聖者ジッドゥ・クリシュナムルティが言った「私は何も信じない」という言葉に通じている。
ただし、クリシュナムルティのこの「私は何も信じない」は「なんでもかでも疑う」ということではない。
しかし、まずは「全て疑ってみる」という時期も必要であろう。
そうすれば、笹沢佐保の時代劇のヒーロー、木枯らし紋次郎のように、
「別に疑っちゃいませんが、信じてもいやせん」
という賢い態度になる。
木枯らし紋次郎は、明らかに1日も学校に行っていないのだが、紋次郎は自分で学んだのだ。
2014年のTEDの伊藤穣一氏の講演「ナウイストになろう」の大きなテーマは「Learning over Education」だった。
経済産業省のWebサイトでは、この言葉を「教育から学びへ」などと訳しているが、正しくは、「教育より学び」であるはずだ。
木枯らし紋次郎は、教育されなかったから、よりよく学んだのであるが、これは、現在の世界トップレベルの優秀な人材にも当てはまるのである。

もちろん、子供じゃあるまいし、やるなと言われていることを全部やる必要はない。
良いルールは守らなければならない。
しかし、「やるな」と言われていることの中に、本当にやるべきことがある。
また、「やれ」と言われないことの中にこそ、優れた行いがある。
さらには、やると笑われる、やると蔑まれることの中にこそ、真に高貴な行いがある。
まあ、それが「やるな」と言われていることなのかもしれないが、岡本太郎流に言えば、
「笑われてもいい。いや、笑われなければならない」
「認められなくていい。いや、認められてたまるか」
「嫌われてもいいじゃないか?いや、嫌われないといけない」
である。

せめて、やれとは言われるはずがないことの中から、やることを見つけてやってみるのが良い。
それで笑われたり、蔑まれたりしたら、それは、とても良いことかもしれない。
米津玄師氏が初音ミクさんの歌を作っていた時が、そんな感じだったかもしれない。
そういえば、上で取り上げた伊藤穣一氏も、自身のテレビ番組で、初音ミクさんのことが好きだと言っておられたようだし。
宮沢賢治の『雨ニモマケズ』に、こんなフレーズがある。

ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイフモノニ
ワタシハナリタイ

ただ、賢治は理想は持っていたが、徹してはいなかったかもしれない。
イエス流に言えば「金持ちが天国に入るのは難しい」のである。
賢治の家は豊かだったのだ。

とりあえず、呪文や真言を常に唱えるところから始めようと思う。
そんなこと、誰もやれとは言わないし、やっても褒められないし、おそらく、デクノボー・・・かどうかは分からないが笑われる可能性が高い。
ならば、ひょっとしたら、とても良いことかもしれない。
それは自分で確かめるしかない。
本当にデクノボーかもしれないが(笑)。
私はデクノボーを長年やっている(笑)。








  
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運命に乗って悠々と生きる ※今回の情報は特に純度が高く上質

この世界が、映画『マトリクス』や、小説・アニメ『ソードアート・オンライン』のような、作り物の幻のような世界であることは間違いない。
科学的には、こんな世界をシミュレーテッド・リアリティと言い、おそらく、超高度なコンピューターが作り出している見かけ上の世界である。
なぜ、この世界がシミュレーテッド・リアリティであるかというと、私の場合、あり得ない奇跡的な偶然が、あまりに頻繁に起こっているのを見続けて、いくら何でも気付かざるを得なかった。
書籍『マスターの教え』で、「本当は誰でも、そんなこと(奇跡的な偶然など)が度々起こっているはず」とあった通り、私以外の誰でも、同じようなものを見たり、体験しているのだと思う。だが、この本でマスターが言う通り、それを忘れてしまう人が多いのだ。

そして、人生とか運命の大枠は、初めから決められていると思って間違いない。
当たる占いはやはり当たるし、占うまでもなく、具体的にというのではないが、あらゆる人間の運命の雰囲気は、だいたい感じるのである。簡単に言えば、特別な運命か、平凡な運命かというものである。
名前や、あるいは、生年月日が同じでも、全く同じ運命になるわけではないが、そんな人間同士は、性質的にはどこか似ていたり、運命の傾向も似ていると思える。
そして、より良い人生・・・苦痛が少なく、楽しい人生にするには、あらかじめ用意された運命に逆らわず、運命の波に乗ることが一番だろう。
とりあえずはサラリーマンになる運命にあれば、スポーツ選手や歌手になろうとせず、サラリーマンになるのが良いのである。
逆に、サラリーマンになることを、どうしても心が納得せず、ミュージシャンになるのが自然に思えるなら、ミュージシャンを目指すべきだろう。
ただし、本当にそれを自然に感じる場合だけで、そうであるなら、困難なはずのミュージシャンへの道にも、不思議な自信があって、それほど不安は感じないと思う。
私が、成功した社長達に、「独立の際、不安がなかったか?」と聞いた時も、全員が「ノー」と答えたのであるが、それと同じだ。
ミュージシャンになる運命であるなら、どれほど長時間、演奏をしても歌っても疲れないし、自分の演奏や歌が受けても受けなくても、平気でいられると思う。
何より、演奏したり歌ったりが楽しくて仕方がないはずだ。
ある世界的ミュージシャンがこう言っていた。
「街角でハーモニカを吹いてさえいれば満足出来る人間じゃなきゃ、ミュージシャンになんかなれないのさ」

では、どうすればうまく運命の波に乗れるかというと、「発想即行動」で、あまり頭であれこれ考えないことだ。
もっとも、「酒が飲みたいと思うから、即、飲む」とか「こいつが気に入らないから、即、殴る」というのは、自己コントロールを失ってしまっているだけで、もうかなりヤバいのである(笑)。
だから、気の毒なのは、自己コントロール(自己制約)が出来ない親に育てられた子供だ。
まあ、そんな親に育てられるのも、あらかじめ決められた運命なのであり、そんな子供が、自分を厳しく律することを覚えれば、偉大な人間になる可能性が高い。
しかし、そうでなければ(その子供が自分を律しないままでいれば)、ロクでもない親に育てられたらロクでもない人間になるというだけのことである。まあ、そんな子供でも、それなりの人間に出会い、自分を考え直す機会は必ず与えられるので、そのチャンスを生かすことが出来るかどうかで運命は決まる。

宗教とか芸術は、自分の運命を感じる感性を磨くために生まれた。
もっと詳しく言えば、まず、宗教が出来たが、宗教は、形骸化・権威化し易く、そんな宗教では、人間の深い感性を高めることは出来ない。そこで、宗教から芸術が生まれ、今度は、芸術が人間の感性を高める役割を果たしている。
まあ、その芸術も、かなり、形骸化・権威化しているので、気を付けるべきであるが・・・
そこで、形骸化・権威化していない宗教を信仰するか、優れた芸術に親しむことは大切・・・というか、ぶっちゃけ「お得」なのである(笑)。
それで、自分の運命を見極め、それに逆らわずに生きることが出来、結果、楽しい人生を送れるのだからだ。
また、真摯にやるなら、占いも良いと思う。
私の場合、阿弥陀真言を唱えている時期の運が非常に良いのも頷けるので、今後は、熱心に唱えようと思う。
興味があれば、皆さんも、自分の干支の十三仏の真言を唱えると良い。「十三仏」で検索して、自分の守本尊を知り、さらにその仏・菩薩名で検索して、その真言を知ると良い。








  
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1つに徹するということ

時々、親切からなのかもしれないが、このブログのコメントで、
「Kayさん(筆者のこと)は、いろいろやり過ぎて迷っているので、念仏だけにすればいいですよ」
「Kayさんは『神様の奇跡が起こる』だけにしてはどうですか?」
あるいは、
「なんで『神様の奇跡が起こる』だけで良いと言いながら、別のことを書くのですか?無責任だ」
と怒りのコメントをしてくる方もいる。
そういったコメントは公開していない。
まあ、ごく稀な人達と思うが、一応、このことについて書いておこうと思う。

世界的な数学者の岡潔氏は、確かに、毎朝1時間、熱心に念仏を唱えておられたらしい。
しかし、彼は、『正法眼蔵』を座右の書とし、20年間、熱心に読んで、ある時、天啓を得て、その内容が全て分かったという。
そして、彼は、その他にも、あらゆることをやっておられたはずなのだ。

一休は、晩年、確かに、念仏に転向したが、臨済宗の名僧でもあり続けたのである。

度々取り上げる、「神様の奇跡が起こる」と1日中唱え、1憶円を2回当て、ローマ法王に謁見したホームレスだって、知られていないだけで、他にもいろいろやっていたはずなのだ。人間なんだから。
例えば、他のホームレスの手助けをしたり、猫や鳩に餌をやったり(公園などでやると怒られるが)、自分とは関係ない場所でもゴミ掃除をしたりとか、あるいは、それこそ念仏を唱えたりもしたかもしれない。
しかし、「神様の奇跡が起こる」を、1日1万回やそこらは唱えていたのである。
それだけやっていれば、自ずと、何か良いこともしてしまうはずである。そう考えるのが自然ではないか?

史上最高のプロレスラー、ルー・テーズは、確かに、「技を1つと言われたら、ダブル・リストロック」と自伝に書いているが、彼は多才な技を達人レベルに磨いていたのである。彼の代名詞でもあったバックドロップという大技は、確かにテレビ用の見栄えの良い技として用意したのだろうが、それでも、あのスピード、格好良さは、大変な練習の賜物であることが分かる。
とはいえ、彼が心の支えとしていた技は「いつでも相手の腕を折れる」ダブル・リストロックなのだ。
柔道の木村政彦で言えば、エリオ・グレイシーに勝ったキムラロック(腕がらみ。テーズのダブル・リストロックと同じ技)が切り札だったが、必殺技は高速大外刈りで、また、彼は、あらゆる技が超一流だったのだ。

1つの技、1つの能力を磨き抜いていれば、自ずと、他のことにも手が広がるし、沢山の力がつくのである。
ただし、まずは、1つのことをしっかりやらなければならない。
1つのことをしっかりやらないのに、ふらふらと別のことをやる者は、確かに、何も成しえない。
また、せっかく続けていたことを、長くやめていたが、また戻ってくる場合や、もうそのことはやめて別のことをやるということもあるだろう。
そして、1つのことを長くやっていたら、ものごとの原理が分かって来て、何をやって何をやめるかを良い形で自由にやれるようになる。
それまでは、1つのことを磨き抜くべきであろう。
私は、一頃は、プログラミング言語のC言語の名人だったが、やがて、広く「MAGIC(データベースシステム開発ツール)のKay」と知られるようになり、その間にも、JavaScript、VisualStudio、Smalltalk、PHP、Perl、Pythonその他をやり、ある時期からはVBAを熱心にやっているが、まだまだ他のものにも手を出している。
で、プログラミングに関して、何が私の核かと言うと、実は、これに関しては分からない。ザッカーバーグのPHPや、ビル・ゲイツのBASICのように、はっきりしたものがあれば良かったかもしれないが、彼らも、それは若い頃のことで、彼ら同様、私もプログラミングという枠を超えたので、それで良いと思う。

私は、1日1時間は『願いをかなえるお清めCDブック』のCDを聴いているし(『和の成功法則』のものでも良い)、毎日ではないが『バガヴァッド・ギーター』や『福音書』を読むし、他にも、いろんなものを読む。
だが、最も基本は、社会人になった時から続けている真言である。
運動で言えば、腕振り運動と四股は欠かさないが、腕立て伏せやスクワットも、毎日、少しはやるし、他の運動も必ず毎日やっている。しかし、運動に関しては、核となるのは、腕振り運動と四股である。

確かに、私も基本がぐらついていることがあり、それに気付いたら、基本をしっかりやろうと思うことはある。
そして、根本的には、「馬鹿の1つ覚え」を信条としており、「これだけあれば、他は捨てて良い」と思っている。
しかし、自分の好きに捨てたりは出来ないものであるし、無理に捨てなくて良い。
だが、核の1つがしっかりしていないなら、お話にならない。
そんな者ほど、「うまくいきませんが、念仏は唱えています」といった、わけの分からないコメントをする。
念仏をしっかり唱えて、うまくいかないはずがない。
それは、唱え方が足りないのである。








  
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一番楽に幸運を掴む方法

一番楽に、良い思いが出来る方法は何だろう?
それは、強い人にえこひいきしてもらうことである。
「人間は平等公平でなくてはならない」という信念は立派であるが、自分がえこひいきされる分には構わないではないか?(笑)。
確かに、えこひいきは良いことではないが、学校で、先生にえこひいきされたことがある人なら、その快適さは分かると思う。
もちろん、先生のえこひいきの仕方が下手で、他の生徒に恨まれてはいけないが、そんなふうに、えこひいきされることでトラブルが起こるというのは、えこひいきする先生に力がないのであり、そんな先生ではなく、力のある先生にえこひいきして欲しいものである。
力のある先生、力のある社長なら、えこひいきされても、誰にも文句は言われない。ただ、快適で楽しいだけである。

では、どうやれば、凄い人にえこひいきしてもらえるかというと、心から敬うことである。
逆に言えば、心から敬うことが出来ない相手にえこひいきされようなどと思わないことだ。
それは無理だし、もし、敬ってもいない相手にえこひいきなどされたら、必ず痛い目に遭うだろう。

えこひいきというと、古い話で恐縮だが、私は、プロレス史上最高のレスラーだったルー・テーズのことを思い出さずにいられない。
テーズは、家が貧しくて高校に進学出来ず、大好きなレスリングも出来なくなるはずだったが、なんとか、ミズーリ高校のレスリング部と一緒にレスリングの練習が出来るようになった。
そのミズーリ高校のレスリング部に、ジョージ・トラゴスという偉大なプロレスラーが指導に来ていたが、トラゴスはコーチとしては評判が悪く、弟子になったら潰されるという噂で、テーズがトラゴスの弟子になる時には、周囲から反対されたらしい。
しかし、テーズはトラゴスの指導でメキメキと実力をつけたばかりか、トラゴスはテーズに大変に親切で、車で送り迎えすらしてくれたという。
テーズは、その理由について、自分がトラゴスやレスリングを心からリスペクト(尊敬)していたからだろうと自伝に書いている。
実際、トラゴスは、レスリングをリスペクトせず、舐めているような者には容赦がなかった。
しかし、トラゴスは、テーズのように、真摯にレスリングを、そして、レスラーとしてのトラゴスを敬う者は、徹底して大切にした。
力ある者ほど、そのようなものであると思う。

上辺だけ尊敬しているような態度を取っても、本物にはバレバレであると思って間違いあるまい。
まあ、本物の方も、そんな邪な者達が沢山寄って来るのは仕方がないと分かっているし、世間の付き合いもあるので、適当には相手をする場合があるが、やはり本当に肩入れするのは、真に敬う心を持っている者だけである。
そして、本当の敬いの心を持っている者は極めて少ない。
学歴があるからとか、家柄が良いからという理由で己惚れている者は、本当に優れている者を本気で敬うことはない。
豊臣秀吉が下っ端の時に、織田信長にうまく取り入ったことはよく知られているが、秀吉は決して、上辺だけのおべっかで取り入ったのではないと思う。
秀吉は、心から信長への敬意を持っていたはずである。
そして、信長の家来には、上位の者も含め、案外に、信長を心から敬っていた者は少なかったのだと思う。
秀吉に才があったというのもあるが、それよりも、信長には秀吉が「うい(可愛い)やつ」に見えたに違いないのだ。

より強い人、偉い人を敬えば、より大きなお宝を得られる。
そして、桁外れに力があるのは、神様、仏様に決まっている。
なら、神様、仏様を敬えば間違いない。
ところで、親鸞の弟子の唯円が書いたとされる『歎異抄』にすら、本当の仏様は、絵に描かれているようなものではなく、仏様に、色や形や大きさがあるわけではないと書かれている。
しかし、それでは、人間が敬意を捧げるのが難しいので、象徴としての姿が作られたのである。
また、神様、仏様に関する、世間的概念も、実際のところは当てはまらない部分が多い。
もっといえば、神様、仏様に区別そのものがない。
だから、あまり細かいことにこだわらず、父なる神でも、アマテラスオオミカミでも、アメノミナカヌシでも、阿弥陀様でも、観音様でも、自分のフィーリングに合う・・・つまり、心から敬うことが出来る神様、仏様を選んで祈れば良いのである。
『法華経』の中の『観音経』の中に、観音様(観世音菩薩)をわずかにでも敬えば恵が多いことが書かれているが、では、いっぱい敬えば、お宝を無限にいただけるのである。
そのためには、熱心に「南無観世音菩薩」と唱えれば良いが、観世音菩薩真言である「オン、アロリキャ、ソワカ」を唱えても良いだろう。
各自工夫して、神様、仏様を本気で敬えば、この世の利益、限りなしである。
宇宙の法則自体に心酔し、敬えるなら、それで良いが、そんな人は、まだ人類の中にはあまりいないと思う。
だが、神や仏を敬う心は、結局はそれと同じなのであり、それにより、宇宙の法則はあなたにとってプラスに働くのである。








  
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人生という映画のシナリオ変更法

人生が映画だというのは、本当に良い譬えだ。
いろんな聖者、賢者、神秘家も、人生や世界を映画に喩えたが、もっとうまく喩えろと言いたい気持ちもある(笑)。

人生、あるいは、世界という映画の主人公は我々一人一人だ。
そして、映画は、初めからシナリオが決まっているのが当たり前だ。
シナリオがないのに映画を作るはずがない。
それは人生映画も同じである。
我々の人生のシナリオは初めから決まっていると考えるべきである。

しかし、映画は、製作途中でシナリオを変えることが絶対に出来ないだろうか?
原則論で言えば出来ないが、実際は、案外に行われているのではないだろうか?
「いやあ、シナリオはこうだけど、こう変えた方が良くはないか?」
といった感じである。
しかし、変えられる範囲には自ずと限度がある。
「3月9日のシーンでは、主演の君は、彼女をハグするシナリオだが、チューまでいってみよう!その方が後の展開に活気が出る」
という場合もあるだろう。
だが、そこで、あなたが、
「いえ、どうせならもっといろいろ!」
と言っても、監督である神様は、
「いや、それはいかん。後のシナリオ変更が大変だ。それに後のお楽しみも取っておかないと・・・」
などと言うのである。

シナリオを変える権限は、監督である神様にある。
しかし、主演役者がシナリオを変えて欲しいと思う場合だってあるだろう。
その場合、やりようによっては、監督(神様)にシナリオを変えてもらうことが出来る。
ただし、一定の範囲でということになるはずだ。
だが、一定の範囲とはいえ、シナリオを変えれば、随分違った映画になる。
チュー出来る相手は2人と決まっているのに、3人に変わればどんなに良いか・・・いや、レベルが低すぎた(笑)。

では、どうすれば、シナリオを変えられるのか?
例えば、お金がなくて、当分の間、家でじっと引きこもるシナリオになっているが、旅行に行くシナリオにしたいと思う。
旅行に行けたら、旅行先で可愛い女の子と出会い、彼女とチューを・・・いや、これはあくまで1つの例題である(笑)。
この場合、例えば、旅行バッグを買えば良い。
そうしたら、監督(神様)も、「しょうがないなあ」と思い、お金がどんと入って来るシナリオにするなど、自然に旅行に行く展開にしてくれるかもしれない。
このように、役者である自分が、シナリオを変える準備をすることが有効であることが、沢山の成功者を演じた役者が保証してくれている。
チン・ニンチュウの『誰でも小さなことで大切な願いをかなえられる』という本では、クリント・イーストウッドがこれで成功し、イーストウッドは駆け出し俳優のバート・レイノルズに教え、レイノルズも成功したことが書かれている。
イーストウッドは名優だけに、直観的にそんなことが分かったのだ。
また、フローレンス・スコーヴェル・シンの本では、沢山の事例が書かれている。
H.G.ウェルズの自伝的小説『ポリー氏の人生』では、ポリーは「人生が気に入られなければ変えてしまえば良い」と言い、英国の作家コリン・ウィルソンは、この言葉を座右の銘として、人生を変えた。

ところで、他に、とっておきのシナリオ変更法がある。
実際の映画ではやっちゃいけないが・・・有効ではある(笑)。
それは・・・主演役者であるあなたが「シナリオを忘れる」ことだ(笑)。
そのために、ずっと、お経や祝詞を唱えたり、マントラを唱えれば、シナリオを思い出さない(笑)。
もう、メチャクチャだ(笑)。
だけどねえ、シナリオを忘れるにしても、監督(神様)への敬いを忘れないことが絶対に大切だ。
だから、お経や祝詞や、真言が良いのだ。
例えば、監督が阿弥陀如来とすれば、「オン、アミリタ、テイセイ、カラウン」と阿弥陀如来の真言を唱える。
尚、阿弥陀如来というのは、人間の概念としては、一仏の仏様だが、実際は、あまりに大きく普遍的な、そして、偉大な存在で、宇宙全体と言って良い。
だから、監督が阿弥陀如来だと思えば阿弥陀如来だ。
ところで、シナリオ変更に親切に動いてくれる存在が観世音菩薩で、阿弥陀如来(監督)に対する観世音菩薩は、助監督とか、ジブリで言えば、宮崎駿監督に対する鈴木敏夫プロデューサーのような関係と思っても良いと思う。
宮崎駿氏と鈴木敏夫氏はとても仲良しだそうだが、阿弥陀如来と観世音菩薩もそうである。
そんなわけで、観世音菩薩の真言「オン、アロリキャ、ソワカ」を唱えても良いし、「般若心経」や「十句観音経」を唱えても良い。
だが、大切なのは、敬う心である。
だから、この通りでなくても、自分なりに誠意を示せば良いのだと思う。
迷うなら、日本人の場合、自分の干支の守り本尊(【Wikipedia】十三仏参照)の仏様や菩薩様の真言を唱えるということが昔から行われている。
あるいは、「十言の神咒(とことのかじり)」といって、天照大神のお名前である「アマテラスオオミカミ」と唱えるものがある。
また、昔から、運命を好転させる「サムハラ」のお札を持ったり、同時に、「サムハラ」と唱えるというやり方もある。
いずれも、敬意を持って行わなければならない。
それらを常に行いながら「これで運命を変えて下さる」と信頼してお任せすれば良いと思う。








  
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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
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