ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
あなたをSE、プログラマー、あるいは、超能力者にするブログ。ひきこもりも歓迎。

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。
[2016/11/21]滅多にはありませんが、あまりにレベルが低いコメントは公開しません。
[2011/06/08]迷惑コメントが多くあったため、やむなく、コメントを承認後公開することとしました。

本当の好きは、なかなか見られない

本当の愛なんて、滅多にあるものではない。
「愛」なんて難しい感じはするが、「好き」や「関心がある」と同じことだ。
つまり、「本当に好き」や「本当に関心がある」が、「本当の愛」なんだろう。
ところが、子が親を好きなのは、自分を保護してくれるからで、自分を保護してくれない親は好きではない。
つまり、親に対する好きの半分以上は、自分に対する好きなのだ。
親が子を好きなのは、それよりは少し優る場合が多いが、親だって、自分に対する好きを感じさせてくれない子供は嫌いになるのだ。
つまり、親子の愛は不純過ぎる場合が多い。

電車の中などで、若いカップルがベタベタしているのを見ると、気恥ずかしいよりは、気味が悪いだろう?
どういうことかと言うと、そういった連中は、相手に対する好きも少しはあるかもしれないが、相手を利用して自分への好きを感じているだけなのだ。

我々は、本当に好きなものを見つけたいのだ。
「私はこれが好きです」「私は彼女が好きです」と言っても、その好きの大半は、「自分が好き」なのだ。
例えば、空手が好きだと言って熱心に練習していても、それは、喧嘩になったら勝てて気分が良いとか、「俺、格好良い」と思えるとか、皆(特に女の子)に自慢出来るからといった自己愛がほとんどだ。
ある幼い女の子が、近所のお兄さんが好きだと言うが、理由は、「脚が長くて格好良いし、優しいから」だった。つまり、それも、脚が長い格好良いお兄さんと一緒だと自慢に思えるのと、優しくて自分を快適にしてくれるという自己愛だ。
自分の「好き」が、自己愛だと気付けたら、少しは大人になったということだが、特に理屈の世界、教科書の世界、勉強の世界で過ごしてきた者は、それがなかなか分からない。

イエス・キリストやマザー・テレサのような愛を、普通の人が持ってしまったら、あっという間に破産する。
マザー・テレサは、道で倒れている人がいたら、みんな抱えて連れて帰るし、イエスは、「お前が磔になって死んだら人類を救ってやる」と言われたら、「あいよ」と引き受けるのだから。

「猫が好き」というのは、本来は、なかなか純度の高い好きかもしれない。
しかし、写真や動画にしてSNSに投稿すると、かなり愛が減ると思う。
だって、それ、自分のためにやっているのであり、自己愛を育ててしまうのだから。
惜しいことだと思う。
私は、野良の鳩や烏や亀が大好きで見惚れるが、写真に撮ろうとはあまり思わないし、まして、それを人に見せるなど想像も出来ないのだ。
猫の写真集も、可愛いとは思うが、全く好きでない。

私は、昨日も書いたが、『まちカドまぞく』というアニメで、桃の優子に対する「好き」に、極めて純度の高い「好き」、つまり、本当の「愛」を感じるので、本当に、何度繰り返して観ても楽しいのである。
初音ミクさんに関しては、ミクさんは、「自分はこう歌いたい」という気持ちが全く無いし、自分の感情を一切乗せないのだから、音楽に対する愛を感じるのである。
人間の歌手や演奏家でも、無になって歌う歌手や演奏家がいたら、きっと好きになれるが、クラシックの名門楽団の演奏家でも、やっぱり、名誉欲などの自己愛が強い人が多いので、あまり演奏を聴きに行きたくない。
ただ、Bump of Chickenの藤原基央さんが、自分達は「自分のではなく音楽の意思を実現する」ことを目指していると言っていたことがあったと思う。その意味で、初音ミクさんを尊敬しているとも。
観ていると、概ね、そう感じることもあるのである。








  
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これまでになく感動した漫画・アニメ

最近、『まちカドまぞく』というアニメの第1シーズン全12話を、5回繰り返して観ているが、いまだ、全然飽きない。
ところで、このアニメの第6話は「あすへの決意!!重いコンダラ止まらない」であるが、「コンダラ」と聞いて、「ああ、整地ローラーのことね」と分かる人がどれだけいるだろう?
ちなみに、原作漫画(4コマ漫画)では「重いコンダーラー」と題されている。

整地ローラーには、「コンダラ」あるいは「コンダーラー」という別名は全くない。
わざわざ、「重いコンダラ」と「重い」をつけているのは、やはり、昔のスポ根アニメ『巨人の星』の有名な話からきているのだと思われる。
『巨人の星』のオープニングソングは「思いこんだら試練の道を 行くが男のど根性」という、何やら妙に重々しい雰囲気で始まる。
この「思いこんだら」を「重いコンダラ」と誤解した子供が沢山いて、整地ローラーがコンダラと呼ばれるようになったという説がある。
『巨人の星』のアニメ中、星飛雄馬が、整地ローラーを引っ張るシーンがあったらしいが、それを見て、多くの子供達が、
「あのゴロゴロしたの何て言うのだろう?」「重そう!」
と、2つのことを思った。
そこで、思い出したのが、オープニングの「思いこんだら試練の道を」で、男性合掌の重厚な歌声が印象的だったので、「おもいこんだら」の字幕を真面目に見ていなかったのだろう。
そこで、
「あの道具は、『重いコンダーラー』と歌っていたコンダーラーだ。だって、重そうだから」
となったのだろう(単なる推測であるが)。
「コンダラ(コンダーラー)」に関し、『まちカドまぞく』では、漫画、アニメ、いずれも、何の説明もしていない。

ところで、『まちカドまぞく』は、最近の漫画・アニメで時々あるが、登場人物は可愛い女の子だけで、男は、極めて限定的な場合を除き、一切出てこない。
それでいて、特に萌えや百合(レズビアンラブ)の要素は、全く感じない。
しかし、軽いノリの話のようで、結構、精神的であるし、作者(伊藤いづも氏)の賢さを感じる。

『まちカドまぞく』には、あまりにゆるいスポ根要素があるが、この作品が『巨人の星』が放送されていた、古代スポ根全盛期にあったら、炎上・・・いや、当時はインターネットはなかったので、テレビ局や作者に抗議の電話やハガキ・手紙が殺到していたに違いない。
しかし、ゆるいスポ根と言っても、実際は、これくらいが「丁度良い加減」なのではと思う。
無理、無茶はさせない・・・させようとしても、適切なところで、ちゃんと寸止めする。
まあ、ちょっとしたことでパワハラ扱いされる昨今の事情も影響しているように思うが、とにかく安心出来る。
かといって、大甘とまでは感じない。
見ていて、何か不思議な感覚なのだ。
その理由を考えれば、この作品には、マジに愛があるからだと分かる。
本当の愛を知りたければ、これを読めと言いたいほどだ。
特に、魔法少女、千代田桃の、主人公の魔族、吉田優子に対する愛が凄い。
絶対的に強い桃が、弱者である優子に強い愛を注いでいるのだが、かといって、桃は優子を見下していない。
桃が優子に、こう、シリアスに言う場面がある。
「何か勘違いしてるようだけど、あたし、シャミ子(優子のあだ名)のこと、侮ってなんかいないよ」
それでいて(それだからこそ?)、表面的には、桃は優子に厳しいこともあるが、実は、桃は優子に献身的で、ひたすら優しい。
ああ、桃は本当に優子が好きなんだなあ・・・と感動する・・・なんて、真面目な感想はちょっと合わない気もするが、実際そうである。
そして、優子は桃への劣等感から来ていると思われる反発もあるが、やっぱり、優子も桃を愛しているのだろう。

まさに True Love!
こんなものが見られる作品は、そうはない・・・いや、私が覚えている限り、他に全くない。
ところで、桃は掛け値なしの美少女だし、優子も可愛いと思う。
しかし、ちっとも萌えない。だけど、大好きで、マジで友達にはなりたい。これはまさに新感覚である。








  
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清水の草刈り、紋次郎の薪割り

錦織圭さんは、才能もあったのだろうが、大変なエリート教育を受けていた。
その錦織圭さんが2014年に全米で準優勝するまで、全米のベスト8に進出した日本人は、その92年前の清水善造(1891-1977)だけだった。
この清水さんが中学生の時、当時、日本でテニスはほとんど知られておらず、普通の農家の子であった清水さんは、たまたま庭球(軟式テニス)に出会い、空き地で練習し、高校で庭球部に入り、社会人になってインド駐在した時に初めて硬式テニスを始めた。
当時も、本場イギリスやアメリカのプロテニスプレーヤー達は少年時代からテニスの特別教育を受けていた。
そんな外国選手を相手に、清水は全英ベスト4、全米ベスト8の成績を上げた。
ところが、清水さんのラケットの振り方(特にフォアハンド)は、特別というか「変」だった。「格好悪い」「醜い」と言われたし、今見ても、確かにおかしい。
実は、清水さんは中学生の時、乳牛の餌の草を得るため、学校から家まで15kmもある道で釜で草刈りをしていた。
その草刈りの腕の動きが、ラケットを振る時にも出ていたのだが、その半端でない長時間の草刈りで鍛えられた力が、彼を一流のテニスプレーヤーにしたのだった。

フィクションではあるが、時代劇の『木枯し紋次郎』のヒーローである、渡世人(一般的に、博打で生計を立てている者)の紋次郎が、恐ろしく腕が立つ理由について、ちゃんと道理があった。
紋次郎は、ごく若い頃は木こりとして働いていた。特に、斧を使った薪割りを毎日長時間やったことが、後の剣の強さになったのだ。
紋次郎は38歳の時、わけあって、豪商の家に客人として迎えられ、大事にされたが、タダ飯を食うことを善しとしない紋次郎は、旅館を経営していたその商家でも大量に必要であった薪を作るための薪割りをしたが、その腕前は見事で、若い時の薪割り労働の凄まじさが分かったし、紋次郎の剣の力が凄いのも当然と思われた。

そこで私は、ものごとで抜きん出る法則を「清水の草刈り、紋次郎の薪割り」と言いたい。
何か1つを、長年、みっちりやれば、頭抜けることが出来るのである。
引きこもって、毎日、長時間ゲームをやっている者は、やはり、それで何かの力は身につけているはずなので、それを生かせば飛躍する可能性はある。
私の場合、プログラマーになれたのは、若い頃、当時のパソコンを動かすには、自分でプログラミングをするしかなかったのだが(ゲームに興味がなかった)、最初からプログラミングは出来ないので、本や雑誌に載っているプログラムをひたすら打ち込んだおかげであったと思う。
このように、既にあるプログラムを打ち込むことを、業界で「写経」と呼称することがあるが、今も、これがプログラミングを習得するための、極めて効果的な秘策と言われている。
(本来の写経とは、お経を書き写すことである)
坂本龍一さんは3歳からピアノを毎日みっちり弾き、イチローやテッド・ウィリアムズは、少年時代から、毎日バットを長時間振り続けた。
茂木健一郎さんによれば、ビル・ゲイツは教師の許可の下、高校時代、毎日プログラミングに明け暮れていたという。
魔法の呪文を毎日長時間唱えれば魔法使いになれる・・・かどうかは分からないが、無駄にはならないと思う。








  
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学校時代のヒーローのほぼ全員が落ちぶれる訳

自分がそうだったという人もいるだろうが、小学校の時、クラスに1人か2人は、勉強やスポーツが頭抜けて出来て、しかも、余裕しゃくしゃくで楽にやっている雰囲気の子がいた。
クラスのヒーローやヒロインであり、そんな子を指して、教師や保護者らは、「優秀な子」「頭の良い子」などと言ってたものだ。
私のような普通以下の子から見れば、そんなエリートは謎で、長く、「優良星人」と呼んでいた。
彼らや彼女らは、生まれつき何かが違うのかもしれないし、特別な生活をしているのかもしれないが、とにかく、なぜ、あんなに出来るのか分からない。

結論を言うと、確かに、生まれつき優秀な子もいるかもしれないが、ほとんどの場合は、彼らは要領が良いだけで、彼らの親が、要領の良い勉強や運動の仕方を知っていて、それを教わっただけだった。それで、そんな要領の良いやり方を教わることが出来なかった大多数の子よりうまくやれるのだ。
ただ、そんな要領の良さが通用するのは、学生の間だけである。
30代どころか、多くの場合、20代の間に、かつて輝いていたヒーローやヒロイン達は、ただの凡人に成り下がり、そのギャップから惨めに見えることも多い。
学業成績と、社会での成功度の間には、何の関係もないことは、世界中で証明されていると思う。
そして、要領の良さが通用しない世界を恐れる「子供的ヒーロー」の中には、学校から離れることが出来ず、大学から大学院、それを終えても大学に留まりたがる者が多い。

じゃあ、学校は無理でも、民間の教育団体が、小学生の子供に、要領の良いやり方を教えれば、学生の間は良い思いが出来そうなものだが、それらの教育団体では、うまくやれない。親とか、ずっと身近にいる従僕や執事でもないと、うまく教えられない。
しかし、学校を出た後は、要領の良さよりずっと重要なものがあるので、学校時代は駄目だった者でも、その重要なことをやれば、あっさり逆転出来る。
そして、その重要なことは、案外に、要領の悪い者の方が身につき易い。
別にそれは難しいことではなく、ただ「時間をかける」というだけのことだ。
そもそもが、要領の良さとは時間をかけないことなのだから、学校時代、要領の良さでうまくやっていた者は、社会では、下手したら底辺に落ちるし、実際、そんな例は実に多い。
一方、学校時代、要領が悪くてうまくいかなかった者は、要領が悪くても時間をかければ良いことが分かれば、忍耐を発揮し、高みにいたることが出来る。

ある優良企業の社長は、学校では勉強はさっぱりで、大学も浪人してやっと2流の大学に入ったのだが、社員の中に、かつてのクラスメイトのヒーローがいた。その元ヒーローが、一流大学を出ていても就職に困っていたので、昔のよしみで雇ったのだ。その元ヒーローは、昔は明るく、好感の高い子だったが、すっかり、ムサいオッサンになっていたが。
そして、元ヒーローは、仕事はパターン通りのものならなんとか出来るが、そんなことは新入社員でも出来ることだ。しかし、元ヒーローは、公式のないことは全く駄目なのだ。
社会でのものごとは、何事もなく進むことは珍しく、必ず、不測の事態が起こる。それに対応出来ることが大人の能力なのであるが、不測の事態への対処で重要なことは、要領ではなく予測なのである。何が起こるか予め予測し、その中でも、起こりうる最悪に備えることが必要なのだ。
言ってみれば、学校の教科書には、うまくいくことしか書かれていないので、実社会での、ある程度レベルの高い問題に対しては、全く役に立たないのである。

そして、予測力を身につけたり、幅広いことに対処する能力を得るには、時間をかけるしかない。
逆に言えば、時間を注ぎ込みさえすれば、予測力がつくし、奇妙なパターンの問題にも対処出来る。
世の中で、うまくいかないことを悩んでいる者というのは、時間の注ぎ込み方が足りない場合が大半である。
コンピュータープログラミングも、実戦で役に立つ能力を短時間で身に付けた者は、たとえ天才でもいない。
いや、プログラミングだけではない。
どんな業界でも、優秀なコーチは言うのだ。
「ひたすらやれ。ずっとやれ」
と。








  
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無思考力

お伽噺(童話。正確には日本の童話をお伽噺と言う)には、深い教訓が込められているというが、その教訓が大いに取り違えられているのではないだろうか?
お伽噺は、軽率であることを戒め、考え深いことが奨励されていると言われる。
例えば、『白雪姫』では、林檎売りのおばあさんに化けた母親である王妃に騙されて林檎を食べた白雪姫が死んでしまったことは、深く考えずに、おばあさんを信用した白雪姫のミスということになる。
しかし、普通、自分の母親がどう化けようと、娘には分かるもので(王妃様がそんな訓練をするはずがなく、特に下手そうだ)、もし、王妃がおばあさんに化けて白雪姫が住んでいた小人の家を訪れても、
「あ!お母様!何しにいらしたの?帰って!」
ということになるはずだし、毒林檎で騙される前に2度ほど騙されているのだから、いい加減分かろうというものだ。
サンタクロースを幼稚園の時から信じていなかったというキョン(『涼宮ハルヒ』シリーズの主人公である男子高校生)だが、私は、幼稚園の時は、サンタクロースを信じていた。しかし、『白雪姫』の話は、幼稚園の時から疑問を持っていた。だって、白雪姫は馬鹿にもほどがある!

白雪姫の本当の母親である前王妃は、生まれてくる子供(白雪姫)が、美しいことは望んだが、賢い子であることは望まなかった。
その願いは実現したようだった。
おかげで、継母である新王妃に憎まれて捨てられるが、考えない性格のおかげで、森の小人の家で快適な生活を手に入れた。
しかし、労働の条件付きだった。
きっと、白雪姫は、働かなくても贅沢出来る生活を望んだに違いない(私見である)。
そこに、継母が何度も、白雪姫を殺しに来て、馬鹿な白雪姫は何度も騙されて殺されたが、小人達が蘇生させた。
しかし、毒林檎で殺された時は、小人達に、白雪姫を生き返らせることが出来なかった。
だが、それらの一見悪い流れのおかげで、王子様の目に止まり、王子様のキスのおかげか、死んだ白雪姫を乗せた馬車のゆれで白雪姫の歯から毒林檎の欠片が取れたせいかは諸説あるが、とにかく、白雪姫はあっさり蘇り、超幸福になった。

全ては、なーんにも考えず、感情まかせで進んだ白雪姫の勝利である。
C.G.ユング等、偉い心理学者は、童話を小難しく解釈するが、『白雪姫』に関しては、考えることを放棄した白雪姫が、何度も頭は打ったが、最後は幸運を掴むという話である。
『ヘンゼルとグレーテル』に関しては、ユングか河合隼雄さんだったか忘れたが(河合隼雄さんはユング派の著名な心理学者)、グレーテルという少女の成長が運命を開いたと解説していたように思うが、それはどうだろう?
最初、彼女達の親がヘンゼルらを森の中に置き去りにして捨てようとした時、ヘンゼルが石やらパンやらを道に撒いて帰り道が分かるようにするという小賢しいことをやっていた時は駄目で、グレーテルが、魔女の家で、考えることが無駄と知った刹那、運命が開いたというのが本当ではないのか?

天才?秀才?関係無いだろ。断然、感情任せで進め
「ヘイヘイ!先生、失笑してるぜ?」 衝動優先溢れ出していく COLOR
~『アメリカ~We are all right!~』(作詞・作曲・編曲:じん。唄:IA)より~

矢追純一さんは、自分は頭が悪いので、考えることを諦めたと言う。
しかし、矢追さんは、小学、中学時代は、家で全く勉強しなかったが、成績はオール5がディフォルトだった。
家で勉強していたら恐ろしい母親に怒られる(本なんか読んでたら問答無用で捨てられた)が、4が1つでもあると母親の機嫌が悪く、3でもあったらぶん殴られた。
大学も、受験勉強はしなかったが、特に当時は名門だった中央大学法学部に現役で合格し、4年できっちり卒業している。
そして、日本テレビでは人気番組を生み出すディレクターであったのだが、考えることはしないと言う。
世界的物理学者の保江邦夫さんも、1秒先、1秒後のことも考えないことを著書の中で推奨し、それが、キリストの教えであると断言しておられたように思う。
つまるところ、ソクラテスもそう言ったのだと思う。彼は、「私は、自分が何も知らないということだけを知っている」と延べ、自分にはいかなる能力もないと言った。だからこそ、自分は人類最高の知恵者だとも。








  
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