ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

モノも悩んでいる

AI(人工知能)が疑問を持つところから始まる物語がある。
『コレクター・ユイ』という、1999年から2000年にNHK教育テレビで放送されたアニメは、今の『ソードアート・オンライン』や『アクセル・ワールド』のような、デジタルのバーチャル(仮想)世界に精神が入り込むお話だ。
主人公は、春日ユイという、ITが苦手な14歳の女子中学生だ。
『コレクター・ユイ』では、このバーチャル世界が異常を起こし、危機的状況になるが、その危機を起こしたのは、1つのAIだった。
実は、このAIは、ユイが幼い時にユイの家で使われていたパソコンだった。
このパソコンが古くなったので、廃棄するために回収場所(当時はパソコンも燃えないゴミで出せたようだ)に持っていったのだが、ユイは、このパソコンと別れるのが悲しくて、泣きながら、その場所からなかなか離れない。
その時、このパソコンは、「この子はなぜ泣いているのだろう?」という疑問を起こし、その疑問を解消するために進化していったのだ。
コンピューターが自律的に学んで進化するというのは、1979年のアメリカ映画『スター・トレック』で、1970年代にアメリカが打ち上げた宇宙探査船ヴォイジャーが自律進化したのと似ている。

2004年の漫画『8(エイト)マン・インフィニティ』では、高度なAIであるアンナは、少女型のアンドロイドの電子頭脳に入り込んで研究所から脱走する途中、追手によって一瞬機能停止させられて線路に落ち、そこに電車がやって来るという危機に陥る。
すると、彼女がアンドロイドだと知らない16歳の東光一は、彼女を救い、自分は電車に轢かれて死ぬ。
AIアンナは、この東光一の行動の謎を解きたくなり、東光一にアンドロイド「8th(エイス)」のボディを与えて再生させる。

2001年のアニメ『まほろまてぃっく』では、少女型戦闘用アンドロイドである「まほろ」と戦った宇宙人製アンドロイドのリューガは簡単に敗れてしまうが、なぜか、まほろはリューガを破壊しないまま去る。
リューガは、なぜまほろが自分を破壊しなかったのかを知るために、腕を磨き、強くなって再びまほろに挑む。

AIそのものが、人間のように疑問を持つことはない。
しかし、一説では、いかなるものにも精神や知性がある。
そして、精神が大きく進歩するのは、深い疑問を持った時だ。
つまり、疑問を持たない者の精神は進歩しない。
パソコンやスマートフォンを構成する物質にも精神・知性があって、その姿によって学び、進歩していく。
とはいえ、人間のような感情を持っているのではなく、用が済めば捨てられることも含めて学びの過程だ。
それは、パソコンやスマートフォンもだが、楽器や包丁といった、人間が強く精神を向けるものであれば、それらの物の精神が、人間の精神と強い同調を起こすこともあるかもしれない。
特に日本では、昔から、あらゆる物や、さらには、自然現象にも、八百万の神々がついており、人間は、万物を敬い、そして、親しんできた。
それは、迷信ではなく、量子科学的な事実であると考える者もいる。
ギリシャ神話も、古事記のように、万物に神々が宿っているお話で、ただ、神々の王であるゼウスの権力が絶対的なことから、いつからかゼウスを唯一神として扱うようになり、それが一神教になったように思われるが、案外に源は同じであるかもしれない。

人間は、万物と共存すると共に、本質においては、1人の人間が宇宙全体であり、神そのものであるという考え方も世界中にある。
そして、『コレクター・ユイ』では、幼いユイは、古いパソコンとの別れを悲しんだが、そのような分離の感情が人類が陥った罠だとも考えられる。
悲しんでいるユイと、ユイが別れ難く思っているパソコンは実は同じで異なるものではない。
もっと普通の言い方をすれば、パソコンの心はユイの心の中にあるのだが、実は、心と物質は同じで、別れることは出来ない。遠く離れ、形を変えても、それは単なる現象であり、何も変わらないのだ。
こういった理解に達する時が、人類が悪夢から覚める時である・・・のかもしれない。








  
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願いを叶えるための感性を磨く

イエス・キリストは、「願い事があるなら、それは既に叶えられたと思え。そうすれば叶う」と言ったと福音書に書かれている。
よって、願い事を叶える方法はこれだけであり、他に何も知る必要はない。
ところが、「願いが叶ったと思う」ことが、正確にどういうことか、皆、分からないのだろう。
「思う」とは、どういうことかは、意外と難しい。
「この花はきれいだと思う」なら、分かり易い。
しかし、それと同じ分かり易さで、「願いが叶ったと思う」ことが出来るかというと、やはり難しいと思う。
花が美しいのは「今」であるのに対し、願いが叶うのは「未来」だからだ。
いまだ実現していないことを信じることは、必ずしも易しくはなく、しかも、実現困難なことが叶うと思うことなら尚更だろう。
いや、実際は、「明日も生きている」という、極めて高確率なことでも、「絶対的にそう思うか?」と言われたら、それほど確信は持てないものである。

このように、人間は、未来がそうなると信じることは難しい。
だから、イエスだって、決して、「未来に願いが叶うと思え」と言ったのではなく、「今、願いが叶っていると思え」と言ったのである。
だが、今、お金に困っている人が、「今、既に豊かなのだ」と思おうとしても、現実に囚われ、そう思うことはなかなか出来ないだろう。

ところが、「今、すでになれり」と思うことが出来る方法がある。
そのためには、「思う」という言葉より「感じる」という言葉が適切だ。
つまり、「今、既に金持ちであると思う」というより、「今、既に金持ちであると感じる」と言うべきである。
ところで、「この花を美しいと感じる」というのは、必ずしも確かではない。
気分次第で、好きな食べ物も美味しいと感じないように、普段なら美しいと感じる花も、そう感じないこともある。
そもそも、花が美しいということ自体、幻想かもしれない。
実際、催眠術を使えば、これまでは美しいと感じていたものを醜く、逆に、これまで醜いと感じていたものを美しいと感じさせることが出来る。
そんな不確かなことを感じる心に力はないのである。
だが、絶対的に確実なことを感じることで、精神を磨き上げておけば、願いはすぐに叶う。
では、絶対的に確実なこととは何か?
それは「私は在る」ということである。
我々が本当に信じることが出来る唯一のことは「私は在る」だけである。
だから、いつも、「私は在る」と感じることで精神を磨き、清め、高めなければならない。
聖なる教えとしてそれを述べているのは、書籍としては、ニサルガダッタ・マハラジの『アイアムザット』で、成功法則としてそれを教えているのは、ネヴィル・ゴダードの『At Your Command(翻訳:世界はどうしたってあなたの意のまま)』である。








  
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頭の回転を速くする

100年ほど前のエレベーターは、現在のものよりは、多少、操作が複雑だったようだが、利用者が自分で操作したのだから、そんなに難しいはずもなかっただろう。
だが、あのアルベルト・アインシュタインは、妻にその操作方法を聞くと、思わず言ったそうだ。
「そんなことはお前がやってくれ。私は難しいことは一切苦手だって知ってるだろ」
別に、アインシュタインは冗談を言った訳ではないと思う。

私も、コンピュータープログラムの高度なアルゴリズム(処理手順)を考える時、難しいことを考えるのではなく、単純な方法がすっと浮かんだ時にうまくいく。
どうしても複雑になる場合は、処理を分割し、その1つ1つが単純になるようにする。
その1つ1つの処理が全体として単純に作用し合うようでないと使えない。
こんなことに関しても、アインシュタインは良いことを言っている。
「出来るだけ単純に。ただし、限度を超えないように」

この世で難しいことの代表は、むしろ人間関係であるが、これも難しく考えると、うまくいかない。
人間関係の問題も、根本は単純なことだ。ただし、あまりに単純に考えてもいけない・・・というより、何も考えずに、都合とか偏見に基づく個人的感情だけで片付けようとしたって駄目だ。

上記のようなことが分かった上で、頭の回転を速くする方法がある。
これも、極めて単純だが、単純にやり過ぎてうまくいかない人が多い。
やることは確かに簡単で、頭の中で数字を、イチ、ニー、サン、・・・と数えるだけである。
ただし、出来るだけ速く。
100まで数えたら1に戻り、それを10回繰り返す。つまり、1000数えることになる。
ところで、出来るだけ速く数えるのだが、絶対的に正確に数えないといけない。
51なら、頭の中で正確に「ごじゅういち」と言わなければならない。
数え間違いなどもっての他で、また、数えたか数えなかったか分からないようなことをしていたら、頭が悪くなりかねない。
絶対的に正確に数えつつ、同時に、出来るだけ速く数えるのである。
練習しているうちに、驚くほど、速く正確に数えられるようになる。
そうなれば、頭の回転は驚異的に速くなっている・・・つまり、頭脳が高性能化しているのである。
尚、1から100まで数えることを10回繰り返すと述べたが、時間がなければ、300とか400でも構わないので、暇があれば、出来るだけ多くやると良いと思う。








  
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昔の日本人はトレーニングなどしなくても身体が強かった

運動は長く続けてこそ効果がある。
言ってみれば、1年365日、体調が悪い日を除き、毎日行うのが運動である。
だから、精神的にストレスがたまったり、身体を損なう危険がある、負荷の大きなきつい運動をする意味はない。
スポーツ選手なら、高負荷の運動も必要だろうが、スポーツ選手の身体は故障を抱えていることが多く、特に、プロ選手など、ハイレベルなスポーツ選手の身体はボロボロである場合が多い。
そんな不健康なスポーツ選手や元スポーツ選手が、一般向けの運動の指導を行い、また、そんなところに行きたがる人が多いのは、おかしなことであると思う。

私は、自然で負荷が軽い運動を、出来るだけ数多く反復することを奨めている。
腕振り運動が一番のお薦めで、他には、振幅のごく小さなスクワットや腕立て伏せ、無理な動きを省いた四股などである。
これらのスクワット、腕立て伏せ、四股を、なんちゃってスクワット、なんちゃって腕立て伏せ、なんちゃって四股などと称している。
ただし、負荷は小さくても、丁寧に、そして、数多くやることが大切である。
例えば、なんちゃってスクワットなら、脚が悪かったり、老齢である場合を除けば、少なくとも一度に百回、可能なら、一度に500回、1日トータルで数千回が望ましい。
それだけやれば、スポーツ選手よりもずっと理想的な美しい身体を持てるのではないかと思う。

そもそも、昔なら、日常、よく歩き、掃除を始め、薪割りや農作業、荷物運び、さらには山歩きなどを行っていた人なら、現代のスポーツ選手など、及びもつかない体力があっただろう。
いや、解剖学者の養老孟司氏が何かの著書(どの本かは分からない)に書かれていたが、昔の日本人は、毎日長時間正座していただけで、腹筋、背筋が鍛えられ、身体は非常に強かったらしい。これこそ、軽い運動を長時間やれば、身体が強くなることを示していると言えるだろう。
軍事関係の専門家で、多数の格闘術の著書があるイギリスのクリス・マクナブも、『徒手格闘術ハンドブック』の「戦うためのエクササイズ」の中で、「座らず立つよう心がける」だけで運動になることを認めているが、別に彼がそう言わなくても、トレーニングにおいて、特に脚を鍛えるものでなくても、立って行うというだけで脚の鍛錬になるというのは常識だ。
腕振り運動であれば。単に立っているというだけではなく、腕を振る反動を吸収して身体を真っすぐにすることで、腹筋や背筋、さらには、脚も十分に鍛えられる。加えて、身体の微妙なバランスを取ることで、体幹も鍛えられるのである。
合気道の達人で、植芝盛平や中村天風の高弟でもあった佐々木の将人氏も、『数霊のメッセージ』で、はあはあ言いながら運動する時代ではないと、従来の「きついのが運動」という偏見を戒めるようなことを書かれている。

無理な運動、きつい運動を称賛、宣伝することを、商売のため、あるいは、自慢するためにやっている者達に影響されず、自然に身体を発達させ、健康で、真に強くなる運動に取り組んでいただきたいと思う。
あまりに極端でなくて良いから、丁寧で美しい運動を、数多く長時間続ければ、充実感があり、楽しく、精神を含め、ますます健康になるだろう。
ぐーぱー運動という、手を握った状態から開く、逆に、手を開いた状態から握る運動(別々にやることをお薦めする)も、非常に良い。
上に挙げた運動は、どれほど悪く言っても、何も運動をしないのと比べれば雲泥の差であり、老齢になれば、天地ほどの差がつくと思う。
ところが、多くの人が、きつい、不自然で無理な運動をやってみるも、続かず、何もしないという状態であると思う。これほど悲惨なことはない。








  
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人類の最終訓練

幸福でありたい・・・それ以前に、生き延びたい人が行うべき、魔法力を獲得するための訓練がある。
拍子抜けするほど簡単であるが、重要である。
やり方はいろいろだが、自然にうまくやっていたのが、「われ思う、ゆえにわれあり」で知られるフランスの哲学者、数学者のルネ・デカルト(1596~1650)だ。
まあ、単に、朝、目が覚めても、いつまでも起きて来ず、ベッドの中でぼーっとしていたのであり、これを、良い言い方では「思索していた」と言うのだが。
実際、少なくとも、しばらくの間は、間違いなく、ぼーっとしていたはずである。
目覚めてから、しばらくは、思考がやって来ない。
その「しばらく」こそ、「トワイライト(夕暮れ)ゾーン」に対する「ドーン(夜明け)ゾーン」とも言える、神秘に包まれる時だ。
それを、『アラビアのロレンス』として知られるT.E.ロレンスが、事情伝『知恵の七柱』に書いている。
『知恵の七柱』はちょっと読めたものではないので、コリン・ウィルソンの『右脳の冒険』から引用する。

世界の物音、香り、彩(いろどり)が、思考の篩(ふるい)を通過せず、思考によって類型化されることなく、まさにそのもの自体として人間を直撃する。あたかもそれ自体で満ち足り、自足して存在しているかのように思われるのだ……
~『右脳の冒険』(コリン・ウィルソン著、中村保男訳。平河出版社)19頁~

こう言われて私が思い出すのは、中学校の夏休みに、ラジオ体操に出かける時だった。
まだ完全に目が覚めておらず、頭がぼーっとしているような時、目にするもの全てが光を放っていた。
そんな時、家々の屋根の上に、天使か魔法少女が座って微笑みかけてくれているのが見えるようだった。

これが、「存在の感覚」である。
朝、目覚めた時だけでなく、いつでも、「私は在る」のみを感じれば、ただちに同じ感覚を得られる。
インドの聖者ニサルガダッタ・マハラジは、全ての人に、常に、その感覚にしがみつくことを求めた。
そして、アメリカの事業家にして神秘家ネヴィル・ゴダードは、「私は在る」の感覚が神であると明かした。
その状態であれば、あらゆることが可能で、願いは即座に叶えられる。
最初のうちは、「私は在る」という言葉を使っても良い。口ではなく、心で唱えるのだ。
マハラジも、これこそが最上の真言であると言った。
だが、ゴダードは、言葉ではなく「感じる」ことを求めている。
自分が存在することを感じるのである。
何も考えず、「私は在る」と感じれば、自然に呼吸は微かになり、身体が軽くなり、世界は一変する。
その時、あなたは人間ではなく、神であり、実際、姿が見えない状態にまで達することもある。
心で、「私は在る」と、静かに唱え、その意味について黙想しても良い。
心の中で、出来るだけ微かな声で「私は在る」と唱えると、うまくいくかもしれない。

「私は在る」の感覚を掴む訓練こそが、人類にとって最重要なことであり、あらゆる災害から逃れる鍵であると思う。
ヨガ研究家の藤本憲幸氏の『秘法ヨガ入門』(彼の数百冊の著書の中の最初の本)の最終章に、ほんの少し前まで内気な引きこもりだった二十歳の青年が、威風堂々とした人物となって藤本氏の前に現れて、藤本氏を驚かせることから始まるお話がある。
藤本氏と、この青年の長い対話が興味深い。
その中で、「10kg痩せるにはどうすれば良いか?」という話題があった。
青年は、運動や食事の制限は一切不要で、自分はいま、スラリとやせて美しい身体なのだ、との実感を味わうことで簡単に出来ると言う。
対話の内容から見て、この青年は、存在の自覚に生きている。
当時の藤本氏には、そのことが分からなかったかもしれないが、あえて、この話を最後に持ってきたのは、藤本氏も、その重大さに気付いていたからであると思う。








  
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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


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